« 正確な調査を望む活断層 | トップページ | 空転国会となるのか »

2012年8月27日 (月)

倭国の興亡140: 近江(大津宮)遷都と天智即位

 667年、中大兄皇子は近江に大津宮を造り遷都した。古代に大津に都が置かれたことは判っていたが、その中心部が大津市錦織であることは、1975年(昭和49年)に宮殿と見られる大型の掘立柱建物跡などの遺構群が見つかり、大津宮跡であることが確定された。
140_2  規模は正確には不明だが、南北3~400m、東西200m位と想定され、内裏朝堂院を備えた宮城と見られる。この地は東に琵琶湖、西に比叡山がせまり、東の湖岸は比叡山からの土砂の堆積地で狭隘なため、他の都のような碁盤目にはできず、小ぶりな都であった。宮城は錦織にあり、関連の官衙(役所)や官人の宅地は京域内に分散して配置された。図は大津宮内裏南門跡

 近江は畿外であり、この遷都は多くの人々から反対されたが、ここに遷したのは一つには、当時近江に有力な渡来人勢力がおり、天智天皇の支援勢力であったためと云われる。大津周辺には6~7世紀の渡来人の韓式古墳が1000基も見つかっている。そうした勢力があったからこそ大津京の造営も可能だった。
 近江遷都の最大の理由は、やはり新羅と組んだ唐の脅威であろう。百済が滅ぼされ、残る高句麗と組んで唐・新羅を牽制しようとしたと思われる。古くから百済からのルートは敦賀、近江そして大和を結ぶ日本海ルートがあり、高句麗との結びつきを容易にできる地の利を考えての事であろう。

 近江遷都の翌668年、中大兄は7年間の称制に終止符を打ち、ようやく即位し天智天皇となる。乙巳の変以来23年ぶりの即位である。
 白村江敗戦以来、即位を先送りし、自分に向けられる批判、追求を躱し、非常事態を名目に各地に防備施設を築き軍国体制を敷き、懸案の氏族再編を行い、権力集中を図った。こうして内政改革と防衛体制の構築が一段落し、非常時に終止符を打っての即位となったのである。
 5年後に世を去る天智天皇にとっては、大津京は新しい律令国家を夢見た幻の都だったのである。

|

« 正確な調査を望む活断層 | トップページ | 空転国会となるのか »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/534272/55518067

この記事へのトラックバック一覧です: 倭国の興亡140: 近江(大津宮)遷都と天智即位:

» ケノーベルからリンクのご案内(2012/08/28 08:44) [ケノーベル エージェント]
大津市エージェント:貴殿の記事ダイジェストをGoogle Earth(TM)とGoogle Map(TM)のエージェントに掲載いたしました。訪問をお待ちしています。 [続きを読む]

受信: 2012年8月28日 (火) 08時45分

« 正確な調査を望む活断層 | トップページ | 空転国会となるのか »