倭国の興亡133: 斉明女帝の征西
660年の百済救援要請を受けて、斉明天皇は12月、筑紫に本営を置こうと、自ら難波に行き武器をととのえた。翌661年正月、太子中大兄、弟の大海人らを伴い、難波を出航し、瀬戸内を西へ向かい、大伯海(現岡山東部)、伊予の熟田津(ニギタツ)に寄港し、石湯(道後温泉)に行宮(カリミヤ)を定めしばらく滞在。 筑紫の娜大津(ナノオオツ)(博多)には3月に到着。磐瀬(福岡市内)に行宮を作り、本営とし「長津宮」と名付けた。更に5月には朝倉(福岡県朝倉)に、「朝倉橘広庭宮」が完成し、居を遷した。しかし、宮殿の倒壊、鬼火の出現、大舎人や近習の病気死亡多数、等々不吉なことが重なり、斉明天皇自身が朝倉宮で客死した。(図は斉明天皇の陵墓とされる牽午子塚古墳から出土した七宝焼の金具)。
女帝の遠征は神功皇后以来であるが、中大兄を伴っての征西は女帝の決意のほどを人々に示し、途中での徴兵を容易にし、士気を高めようとしたといわれる。中大兄が下道評(岡山・真備町)で兵士を挑発したことが風土記にある。熟田津の2か月の滞在も徴兵のためであったろうという。
斉明朝の石の王都・倭京の造営、阿部比羅夫の北征と並んで、百済復興支援は、さらなる「天下」的世界の拡大策である。倭国に長期滞在した余豊璋を百済王に擁立し、援軍派遣で百済復興が実現すれば、倭国は百済を付庸国として従えることが出来、百済をも包括する「天下」的世界に君臨する「治天下大王」の権威は大いに上がる。ということが、斉明天皇のもくろみというか、幻想だった。しかし、この結果唐を敵に回すことにたいする認識の甘さが、やがて、倭王権の立場を一挙に暗転させるのである。
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