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2012年7月21日 (土)

倭国の興亡132: 百済の滅亡

 中大兄と鎌足による蘇我一族討伐(乙巳の変:645年)の頃唐の太宗は2度3度と高句麗征討を試みていた。その頃、百済の侵攻に苦しんでいた新羅は唐との連携を深め、且倭国とも良好な関係を持とうとし、647年王族の金春秋を使節として派遣してきた。ところが新羅は一方で唐への接近策を採り、唐の朝服を公式の場で用い、唐の年号を使用した。
 651年新羅使が朝服を着用して筑紫に来航すると、倭国は勝手に服制を変えたことを責めて追い返した。こうして倭国と新羅の間に亀裂が生じた。
 654年:新羅では金春秋が即位して武烈王となると、高句麗・百済が相次いで新羅に攻撃を仕掛けてきた。窮地に追い込まれた新羅から度々の救援要請を受けた唐は、655年高宗が高句麗征討に乗り出し、連年のように攻撃したが成果なく、高句麗の同盟国の百済を先に叩く作戦に切り替えた。
132  660年:高宗は水陸10万の兵を以て百済に進撃を掛けさせた。新羅もこれを助け、両国軍が百済の王都・泗沘城(扶余城)を攻撃。百済の義慈王は一旦、熊津城に遁れ、立てこもったが、遂に唐軍に降った百済はこうしてあえなく滅び、捕虜となった義慈王は唐に送られ病死した。

 唐は旧百済領に五つの都督府を置き、中国式の州・県制として熊津都督に統括させた。但し、実態は州・県の役人には百済人を任命し、自治を認めた異民族支配方式(羈縻(キビ)政策)を採った
 しかし、百済遺臣を中心に百済復興を目指す蜂起がおこり、中でも王族の鬼室福信や僧の道琛(ドウチン)が挙兵し、任存城を拠点とした。鬼室福信は百済の遺民を結集し一時は唐や新羅の軍勢をも撃破したほどである。図は鬼室福信の子・集斯の墓がある鬼室神社(滋賀県・小野町)である。
 この事は、百済からの使者が倭国に来て、知らせてきた。660年10月には福信からの使者も来て、倭国からの救援軍の派遣と倭国に滞在していた王子余豊璋の送還を要請してきた。王位につけ百済を復興するためである。豊璋は「書記」によると643年頃倭国に来た翹軌(ギョウキ)という百済王子と同一人物で、糺解(クゲ)とも呼ばれ、20年近く倭国に滞在した。

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