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2012年7月 2日 (月)

倭国の興亡128: 古代都市の発祥ー飛鳥宮発掘

 「伝承板蓋宮跡」と名付けられた飛鳥宮跡は、三つ以上の宮殿跡が重なり合って眠っていた。最近の遺跡発掘による宮殿遺構と文献に見える王宮との比較検討が行われ、初期の古代都市ともいえる姿がうっすらと見えてきたのである。
 最下層の遺構は宮殿跡かどうか不明であるが、上下二層の宮殿遺構のうち、下層は出土土器類から640年前後に造営された宮殿とみられる。そうすれば、飛鳥板蓋宮の時期である。上層は宮殿の中心部分の内郭が造営された時期で、660年頃というから、ちょうど斉明期に当る後飛鳥岡本宮の時期になる。
 更にその後内郭の東南にエビノコ郭が増設されるが、この宮殿跡は694年の藤原遷都まで存続するので、飛鳥浄御原宮(アスカキヨミガハラノミヤ)ということになる。
128_2  従前、これら王宮はそれぞれ別の場所に営まれたと考えられていたのが、すべて同じ処に重なって所在していた。また、後飛鳥岡本宮も飛鳥岡本宮の故地に造営されたはずだから、遺構はまだ確認されてないが、この場所にあったに違いないと云われている。これらを順番に並べると 飛鳥岡本宮(舒明朝)-飛鳥板蓋宮(皇極朝)-〔難波遷都〕-後飛鳥岡本宮(斉明期)-〔近江遷都〕-飛鳥浄御原宮-〔藤原遷都〕 となり、舒明朝以降、藤原京が完成するまで、短期のものを別にすれば、飛鳥の王宮は全て伝承板蓋宮跡に所在したことになる。

 元来、王宮は大王の代替わりごとに、即位の壇が築かれた場所に営まれてきたが、7世紀前半、舒明朝頃から王宮名は新たに命名されたが、場所が固定して来るのである。王宮の所在地が固定してきたことによって、飛鳥には次第に街並みが形成されてくる。寺院や貴族の邸宅、官衙(役所)などが建ち並び、特に斉明期では大規模な造営工事が行われ儀式を行う広場や饗宴を催す園地、漏刻(水時計台)など王権の施設が各地に設けられた。
 この時期、一代限りの王宮から、恒久的な街並みが伴う「王都」へと大きく変貌しつつあった。もっとも、藤原京以降の碁盤目のような「計画都市」のような都城とは原理的に異なり、王権の公的施設と寺院・邸宅が混在した王都であった。

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