倭国の興亡134: 白村江の戦い
斉明の九州での崩御により、中大兄皇子は即位しないで天皇の政務を執った(称制という)。称制は7年の異例の長さだった。
中大兄は斉明の意志を継いで、朝倉宮から長津宮(福岡市)に移り、百済救援のための「水表(オチカタ)(海外)の軍政」を執った。
661年8月安曇比羅夫連、阿部比羅夫臣ら5名を将軍とし、救援軍の第一陣を派遣した。9月には余豊璋(倭国に20年滞在していた百済王子)に織冠(最上冠位)を授け、多臣蒋敷(オオノオミコモシキ)の妹を娶らせ、狭井連檳樃(アジマサ)らに5千の兵をつけ百済に護送させた。百済の鬼室福信はこれを丁重に迎え、国政すべてを豊璋に委ねた。豊璋には既に妻子がいたに関らずこの措置をしたのは、百済王を倭王の臣下として擁立する意図があったからである。倭国にとっては百済の復興は付庸国としての復興だった。 中大兄は長津宮で上記指揮をして、10月には海路、女帝の亡骸を運びヤマトに帰還し、飛鳥で殯を行った。以降中大兄は筑紫に行っていない。
翌662年、中大兄皇子は福信に軍需物資や稲籾を送り百済復興軍に肩入れを行った。更に663年には新たな将軍に2万7千の兵力を率いさせ、新羅討伐の増援軍を派遣した。
この頃、復興軍は豊璋・福信の百済軍と倭国の救援軍が周留城(忠清南道・漢山?)を拠点としたいた。しかし、居城の変更をめぐり豊璋・福信と倭将が対立し、663年には豊璋と福信が反目し、6月豊璋が福信を殺害してしまった。
この頃、復興軍を一気に叩こうと、唐・新羅軍は大軍をもって水陸から周留城に迫った。白村江に陣取っていた唐の水軍に、倭の水軍が遭遇した。この倭軍は増援軍の一部で、周留城支援に向かったものだ。
倭軍は唐軍の軍船に挑んだもののその堅陣は破れず、敗退した。両軍は翌朝再び相まみえたが、唐の軍船に挟撃された倭軍は大混乱に陥り大敗する。唐軍に火矢を放たれた倭軍が総崩れとなり、決定的な敗北を喫し、大勢が決したのである。9月には周留城が降伏し、余豊璋は高句麗に逃亡した。
周留城から逃れた倭国の軍船は弖礼(テレ)城(南海島?)に集結し、逃れてきた百済の将軍や民衆を載せ帰国の途に就いた。その後、唐・新羅軍の矛先は高句麗に向けられ、668年王都平壌が陥落し、高句麗は遂に滅亡した。
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