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2012年7月12日 (木)

倭国の興亡130: 儀礼空間だった石神遺跡

 飛鳥寺の西方、飛鳥川との間の広場は、クーデター後の群臣が神々に王権への忠誠を誓った場所であり、神が降臨する神木(依代)である槻(ケヤキの古名)の大木がある神聖な空間だったという。
130  斉明天皇はこの神聖な広場に、須弥山像(左図)という仏教施設を設けた(657年)。仏も神ももまた、諸天(帝釈天、四天王)の住地であるばかりか神々の依代とも考えたらしい。
 須弥山像は図の如く、三段に分かれ、上段は仏教界の中心である須弥山を表現し、中断はこれを取り巻く山脈、下段は水波文を表現している。(1902年(明治35)に旧飛鳥小学校近くの水田で3個の像を発掘)。
 翌1903年、すぐそばから岩に腰かけた老翁と寄り添う老女を彫刻した石人像(下図)も発掘された。これも像の口から水が噴き出す噴水石で、須弥山像とセットの石造物と見られる。須弥山像が出土した一帯は、多くの遺構が発見され、これらを石人遺跡という。遺跡は多くの棟が配置された独特の建物で、神聖な空間だったことを遺構的に示している。

130_3  斉明期、須弥山像の広場では、仏教法会など催したばかりでなく、トカラ(タイから654年漂着)、蝦夷、多禰嶋(種子島)などの化外の民(統治外の蛮族)の饗応をし、服属儀礼を行った、特別に整備された儀礼空間であった。蝦夷の場合、6世紀後半まで王宮近傍の河原で行われたが、その後推古朝では王宮の朝庭に移し、657年上記儀礼空間が整備され、須弥山像のもとが儀礼空間となった。須弥山像が撤去される天武・持統朝まで、大槻のもとでの蝦夷や隼人・南嶋人の服属儀礼は続くが、701年の大宝律令以降は絶えた。
 即ち、天皇自らが”神”であり、究極の権威の地位を確立した段階では、神を媒介した服属儀礼は不要となったのである。

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