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2012年7月

2012年7月31日 (火)

強い陽射しになった

 酷暑と云われる季節だ。今日も真っ青な空で強い陽射しに、植物達も葉がしなだれて、如何にも暑そうだ「片陰を歩き片陰なくなれり(丘本風彦)」の句がある。小生の早朝ウオーキングを詠われている様な句だが、建物や木蔭が途切れた途端たまらない暑さだが、逆に日陰に入った途端本当に救われた気分となる。苦あれば楽ありだ。
Photo  今日はサルスベリ(百日紅)。上から濃いピンク、薄いピンク、そして白。濃いピンクが見頃で、薄いピンクはもう散りかけである。白は我が家のだが、やっと咲始めたところ。
Photo_2  百日紅をサルスベリとは読めないが、百日紅は中国語であり、サルスベリが日本語である。この様に2字以上になってやっと読める字を熟字訓と云うそうだ。海老、土産などの類である。しかし、考えてみると、日本語は全て文字を中国から移入して使ったので、訓読みは全て日本人が勝手に当て字に使っているだけなのである。
Photo_3  ここで百日紅の句を紹介しよう。「枝先へ枝先へ花百日紅(星野立子:高浜虚子の次女)」、「散れば咲き散れば咲きして百日紅(加賀千代女)」句とも次から次へと咲くさまを詠んだものだが、このように似た句も珍しい。

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2012年7月30日 (月)

倭国の興亡134: 白村江の戦い

 斉明の九州での崩御により、中大兄皇子は即位しないで天皇の政務を執った(称制という)。称制は7年の異例の長さだった。
 中大兄は斉明の意志を継いで、朝倉宮から長津宮(福岡市)に移り、百済救援のための「水表(オチカタ)(海外)の軍政」を執った。
 661年8月安曇比羅夫連、阿部比羅夫臣ら5名を将軍とし、救援軍の第一陣を派遣した。9月には余豊璋(倭国に20年滞在していた百済王子)に織冠(最上冠位)を授け、多臣蒋敷(オオノオミコモシキ)妹を娶らせ、狭井連檳樃(アジマサ)らに5千の兵をつけ百済に護送させた。百済の鬼室福信はこれを丁重に迎え、国政すべてを豊璋に委ねた。豊璋には既に妻子がいたに関らずこの措置をしたのは、百済王を倭王の臣下として擁立する意図があったからである。倭国にとっては百済の復興は付庸国としての復興だった。
134  中大兄は長津宮で上記指揮をして、
10月には海路、女帝の亡骸を運びヤマトに帰還し、飛鳥で殯を行った。以降中大兄は筑紫に行っていない。
 翌
662年、中大兄皇子は福信に軍需物資や稲籾を送り百済復興軍に肩入れを行った。更に663年には新たな将軍に2万7千の兵力を率いさせ、新羅討伐の増援軍を派遣した。
 この頃、復興軍は豊璋・福信の百済軍と倭国の救援軍が周留城(忠清南道・漢山?)を拠点としたいた。しかし、居城の変更をめぐり
豊璋・福信と倭将が対立し、663年には豊璋と福信が反目し、6月豊璋が福信を殺害してしまった。

 この頃、復興軍を一気に叩こうと、唐・新羅軍は大軍をもって水陸から周留城に迫った。白村江に陣取っていた唐の水軍に、倭の水軍が遭遇した。この倭軍は増援軍の一部で、周留城支援に向かったものだ。
 倭軍は唐軍の軍船に挑んだもののその堅陣は破れず、敗退した。両軍は翌朝再び相まみえたが、唐の軍船に挟撃された倭軍は大混乱に陥り大敗する。唐軍に火矢を放たれた倭軍が総崩れとなり、決定的な敗北を喫し、大勢が決したのである。9月には周留城が降伏し、余豊璋は高句麗に逃亡した。
 周留城から逃れた倭国の軍船は弖礼(テレ)城(南海島?)に集結し、逃れてきた百済の将軍や民衆を載せ帰国の途に就いた。その後、唐・新羅軍の矛先は高句麗に向けられ、668年王都平壌が陥落し、高句麗は遂に滅亡した。

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2012年7月28日 (土)

猛暑の真っ只中

 例年、7月末から8月の第一週が一番暑いときである。朝5時半起床、6時前に家を出てウオーキング約1時間、7時前に帰って以降、余程のことがない限り一歩も外へ出ないで、テレビ、読書で過ごしている。こんなに暑いと無理しては熱中症になり兼ねないとの口実でグータラを決め込んでいる
 しかし、あと十日で立秋になる。すると今度はこの暑さが名残惜しくなる筈だ。歩いていると自然はもう秋に入りかけているのを見つけた。ススキとコスモスだ。
Photo  ススキ(芒)。ススキは日本では月見に、生け花に、絵画に日常的に親しまれているが北米では侵略的外来種として嫌われている。尾花はススキの穂の古名。秋の七草を憶良は『萩の花 尾花葛花 撫子の花 女郎花また藤袴 朝顔の花』と詠んだ。
Photo_2  コスモス(秋桜)。メキシコ原産で日本には幕末に渡来。ギリシャ語でcosmosは秩序、美しいの意で宇宙をこう呼んだ。花も花弁が整然と並んで美しいところから付いた名。写真の花はまだ咲き始めのものだ。

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2012年7月27日 (金)

オリンピック開幕

 愈々オリンピック開幕。開会式を待たず始まった女子サッカーは2-1で内容は快勝と云えよう。そして今日今度は男子サッカーが、あの強敵、そして優勝候補のスペインと対戦、1-0で勝つという快挙をやってのけた。中には金メダルを22個と予想するスポーツ評論家もいる。どうにも暗い今の日本、誰もが明るいニュースを待っているのだ。
 梅雨明けの途端、猛暑の毎日だが、今日は夏の花で、長期に咲く房状花を二つ。
Photo  デュランタ。標準和名はハリマツリ。別名タイワンレンギョウ。春から秋にかけ長期に咲く。花色は青紫色、花後は黄色の先のとがった可愛い実を沢山付ける。メキシコ原産で、明治中期に渡来。この写真は民家の庭先にあるもので、毎年咲いている。この様に白い縁取りのある品種は「タカラヅカ」という。
I  フサフジウツギ(房藤空木)。中国原産、秩父で野生種が発見され、チチブフジウツギの別名もある。葉が対生し、空木のようで、藤のような花が房状に付くところからの名前。花期は6月中旬から10月下旬と長い。これはカナメの生垣に、庭の空木が枝を伸ばし花を付けてたもの。毎朝見て通る。

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2012年7月25日 (水)

倭国の興亡133: 斉明女帝の征西

 660年の百済救援要請を受けて、斉明天皇は12月、筑紫に本営を置こうと、自ら難波に行き武器をととのえた。翌661年正月、太子中大兄、弟の大海人らを伴い、難波を出航し、瀬戸内を西へ向かい、大伯海(現岡山東部)、伊予の熟田津(ニギタツ)に寄港し、石湯(道後温泉)に行宮(カリミヤ)を定めしばらく滞在。
133  筑紫の娜大津(ナノオオツ)(博多)には3月に到着。磐瀬(福岡市内)に行宮を作り、本営とし「長津宮」と名付けた。更に5月には朝倉(福岡県朝倉)に「朝倉橘広庭宮」が完成し、居を遷した。しかし、宮殿の倒壊、鬼火の出現、大舎人や近習の病気死亡多数、等々不吉なことが重なり斉明天皇自身が朝倉宮で客死した。(は斉明天皇の陵墓とされる牽午子塚古墳から出土した七宝焼の金具)。

 女帝の遠征は神功皇后以来であるが、中大兄を伴っての征西は女帝の決意のほどを人々に示し、途中での徴兵を容易にし、士気を高めようとしたといわれる。中大兄が下道評(岡山・真備町)で兵士を挑発したことが風土記にある。熟田津の2か月の滞在も徴兵のためであったろうという。

 斉明朝の石の王都・倭京の造営、阿部比羅夫の北征と並んで、百済復興支援は、さらなる「天下」的世界の拡大策である。倭国に長期滞在した余豊璋を百済王に擁立し、援軍派遣で百済復興が実現すれば、倭国は百済を付庸国として従えることが出来、百済をも包括する「天下」的世界に君臨する「治天下大王」の権威は大いに上がる。ということが、斉明天皇のもくろみというか、幻想だった。しかし、この結果唐を敵に回すことにたいする認識の甘さが、やがて、倭王権の立場を一挙に暗転させるのである。 

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2012年7月24日 (火)

暑苦しいな近頃は

 急激に進んだ円高、いや、ユーロ並びにドル安。此れでは輸出産業は大変な苦境に立ち、日本経済も危うい。そこへオスプレイの到着。日米安保上はどうにも出来ぬ政府に対し、国民挙げての反対大合唱。その上、下り坂の民主党に見切りをつけ始めた民主離党組原発事故調の政府批判野田さんはまさしく「弁慶の立往生」の態。梅雨明けだというに、息苦しさは増すばかり。そんなことを思いながら早朝ウオーキングで見た珍しい花2点
Photo  キカラスウリ(黄烏瓜)。つる状の草で、高い木にも付く。夏の夜に咲き、一部朝まで残る。レース飾りの花で珍しいが、これが蛾を寄せるそうだ。実はピンポンより小さめの瓜で、秋に色着く。烏瓜は赤いがこれは黄色。何れも烏が好んで食べる処からの名前。
Photo_2  シンテッポウユリ(新鉄砲百合)か 花は上向いて咲き、葉は短く幅広い。普通の図鑑には載ってないが、インターネットで見ると、金沢市農業センターが2005年に開発した栽培種で、「21金沢白」と名付けたものではないかと思うが、珍しい。

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2012年7月23日 (月)

朝食でメタボ回避を!

 新聞の健康欄の話。過食がメタボの原因だが、通常レベルの食事量でも、不規則な食事がメタボの原因となる。名古屋大大学院・小田裕昭准教授のグループの研究成果の話。肝臓も体内時計を持ち、食後の血糖値を下げるインスリンが分泌されている。従って、不規則な時間帯の食事はインスリンの分泌が順調でなく、血糖値は上昇し、肝臓で分解されず脂肪に変化し、肥満の原因となる。ところが、夜間の食事が不規則でも活動を開始する朝に、キチンと食事を摂ることにより、分泌されるインスリンが時計のずれを正し、代謝を正常に戻す効果がある事が解ったという。即ち「狂った肝臓時計を元に戻す役割を果たす朝食は非常に大切で、メタボ予防につながる」という。3食とも規則正しく摂るのが理想だが、せめて朝食だけは規則正しく摂ろう!
Photo  やっと北部九州も梅雨明けとなったらしい。長梅雨で、植物も勘違いしたか、帰り花が咲いている。フジ(藤)であるが、やや小ぶりながら立派に咲いている。他に白丁花も咲いている。両者とも5月に咲く花である。
Photo_2  シラサギ(白鷺)。毎年、田植えの終わった今頃から飛来し始め、初冬の頃までいるが、敏感な鳥でカメラを向けるとすぐ逃げる。
  

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2012年7月21日 (土)

倭国の興亡132: 百済の滅亡

 中大兄と鎌足による蘇我一族討伐(乙巳の変:645年)の頃唐の太宗は2度3度と高句麗征討を試みていた。その頃、百済の侵攻に苦しんでいた新羅は唐との連携を深め、且倭国とも良好な関係を持とうとし、647年王族の金春秋を使節として派遣してきた。ところが新羅は一方で唐への接近策を採り、唐の朝服を公式の場で用い、唐の年号を使用した。
 651年新羅使が朝服を着用して筑紫に来航すると、倭国は勝手に服制を変えたことを責めて追い返した。こうして倭国と新羅の間に亀裂が生じた。
 654年:新羅では金春秋が即位して武烈王となると、高句麗・百済が相次いで新羅に攻撃を仕掛けてきた。窮地に追い込まれた新羅から度々の救援要請を受けた唐は、655年高宗が高句麗征討に乗り出し、連年のように攻撃したが成果なく、高句麗の同盟国の百済を先に叩く作戦に切り替えた。
132  660年:高宗は水陸10万の兵を以て百済に進撃を掛けさせた。新羅もこれを助け、両国軍が百済の王都・泗沘城(扶余城)を攻撃。百済の義慈王は一旦、熊津城に遁れ、立てこもったが、遂に唐軍に降った百済はこうしてあえなく滅び、捕虜となった義慈王は唐に送られ病死した。

 唐は旧百済領に五つの都督府を置き、中国式の州・県制として熊津都督に統括させた。但し、実態は州・県の役人には百済人を任命し、自治を認めた異民族支配方式(羈縻(キビ)政策)を採った
 しかし、百済遺臣を中心に百済復興を目指す蜂起がおこり、中でも王族の鬼室福信や僧の道琛(ドウチン)が挙兵し、任存城を拠点とした。鬼室福信は百済の遺民を結集し一時は唐や新羅の軍勢をも撃破したほどである。図は鬼室福信の子・集斯の墓がある鬼室神社(滋賀県・小野町)である。
 この事は、百済からの使者が倭国に来て、知らせてきた。660年10月には福信からの使者も来て、倭国からの救援軍の派遣と倭国に滞在していた王子余豊璋の送還を要請してきた。王位につけ百済を復興するためである。豊璋は「書記」によると643年頃倭国に来た翹軌(ギョウキ)という百済王子と同一人物で、糺解(クゲ)とも呼ばれ、20年近く倭国に滞在した。

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2012年7月20日 (金)

風当たりが強くなってきた野田政権

 増税は必要だとそれなりに世論は是認しているフシがあるが、最近の原発稼働容認や、オスプレイの国内配備については反対が強く、野田政権の先行きが危ぶまれる。しかし、避けては通れない課題であり、取組み姿勢が問題であろう。又政治家が何を見て政界に居るのかも重要だが、新聞論説も底の浅いものが多い。テレビ報道や週刊誌調であっては困る。
Photo  それはさておき、今日は早朝の雨後の花2点
オニユリ(鬼百合)。百合も最近は栽培種が多く色とりどりで、昔からの鬼百合が珍しくて撮ったもの。茎にムカゴがつくが、つかないのもありそれは「小鬼百合」と云うそうだ。尚名前は花が赤鬼を連想させるとこから付いたそうだ。
Jpg  下オオマツヨイグサ(大待宵草)。日本には自生していた説と、中国よりの渡来説があるそうだ。宵待草、或は月見草の名で呼ばれていたが、月見草は別の花。明治初年、北米からの帰化植物であるそうな。

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2012年7月18日 (水)

台風で梅雨明けが遅れる?

 朝から真っ青な夏空、蝉も盛んに鳴いている。梅雨明けだ!と思ったら、九州だけまだ梅雨だという。気象予報士の話では、台風7号が九州西海上を今日から明日にかけ通過する。従って明後日までは前が降る。依って梅雨明けは明後以降とのこと。梅雨の雨と、台風の雨は全く別物と思っているが、これは如何? 何より昨日から今日に懸け、こんなに夏空なのだから、当然梅雨は切るべきだ、と思うが・・・。で今日は真夏の花。
Photo  ヒマワリ(向日葵)。青空を背にすっくと立っている。別に珍しくもないが、花弁がよれて、まるで”太陽の塔”を思い出したので、撮った。この花ひとつの花ではなく、多数の花が集まって花を形成する「頭状花序」で、外輪の花弁舌状花、内側は花弁の無い花で筒状花が一杯詰まっているのだそうだ。
Photo_2  マンリョウ(万両)1:実はよく見るが花は余り知らなかったが、今咲き始めである。
Photo_4  拡大したのがの写真。余り美しい花でもない。千両、百両、十両とあるが、花で綺麗な十両のようだ。江戸時代から重用されている古典園芸植物。
 

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2012年7月17日 (火)

倭国の興亡131: 斉明朝の北方征討

 斉明朝の本格的な蝦夷攻略は、越(越前、越中・越後の総称)と信濃の兵を集め、渟足(ヌタリ)(現新潟市)の柵(城柵)と磐舟(現村上市)の柵の設置から始まった。北方への関心は北陸から越後方面に移り、更に出羽(山形・秋田)方面に移った。
 越の国主・阿部比羅夫は、658年4月、軍船180艘を率いて齶田(アギタ)(現秋田)に来航した。齶田・渟代(能代)の蝦夷は、征討軍の威をおそれ、戦わず服属したので、渡嶋(北海道)の蝦夷を有馬浜に招いて、大いに饗応して帰還した。この年の7月、新たに服属した蝦夷含め200人余が来朝して、調を貢献した。倭京では盛大な饗応や賜物が行われ、族長には官位を授けた。
131_2  翌659年3月、比羅夫の2回目の遠征が出発。先ず飽田(秋田)・渟代・津軽の蝦夷350人余と胆振鉏(イブリサエ)(北海道南部?)の蝦夷20人余を一ヶ所に集め大いに饗応して禄を授けた。この回は北海道まで遠征したようである。
 更に翌年の660年3月3回目の遠征北海道の渡島で、蝦夷3千人が助けを求め、攻めてきた粛慎(アシハセ)(蝦夷と異なる民族)と戦闘し、これを破った。同年5月、粛慎人47人が来朝し、飛鳥の須弥山像のもとで服属儀礼がおこなわれたのである。凱旋した比羅夫は生捕りしたヒグマ2頭とヒグマの毛皮70枚を献上した。

 最近、古代東北北部と北海道が密接な関係に在った事が解ってきたが、中央政府の征討軍が北海道まで行ったのは、唯一これだけと云われている。
 尚、659年7月出航の遣唐船には蝦夷男女二人を同道し、高宗皇帝に謁見し、蝦夷国が倭国に朝貢していると説明している(新唐書や通典など中国文献にも記載)。これは、倭国が朝貢国を従えた「小帝国」であることを主張したかったのである。治天下大王への朝貢国任那が645年を最後に廃絶するのに代わって、「蝦夷国」が「天下」的世界の存在にとって、重要な政治的意味を持つとの見方がある。
 唐にまでわざわざ蝦夷を連れて行く位であるから、蝦夷や粛慎の来朝と須弥山像のもとでの服属儀礼は倭王権にとっては重要な政治的セレモニーだったのだ。これを見ると斉明朝の石の王都建設と北方遠征とはこの儀礼空間で結びつき一連の王権の神聖化、強化策であると理解できるのである。

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2012年7月15日 (日)

山笠走る!

Photo  4時59分スタートする走る山笠のテレビ実況をみた。
一番目にスタートした「千代流れ」の舁き山。櫛田神社境内に入り”奉納”(参拝)のあと、一番山笠のみ、「祝い目出度」を詠ってから終着点まで一気に駆け抜ける。
 表の人形は織田信長であり、「天翔覇王夢」(天翔ける覇王の夢)というタイトルがついている。

Photo_2  は昨日掲載した「上川端流れ」の飾り山であるが、ご覧の通り、この山だけが、他の舁き山7台に続き、8番目(最後)に同じく担いで宮入するのである。高い分、舁く人数も多く、舁棒の本数も多く且つ長い。表面は「八犬伝」である。又白くなっているのは白煙を吐き出す仕組みが作られていた様だ。これで博多の街も平静に戻る。そして暑い夏になる。写真はテレビを撮ったもの。

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2012年7月14日 (土)

飾り山笠を見てきた

Photo_19  福岡北部の豪雨も福岡市域では薄日も射していたので、明日本番の山笠の「飾り山笠」を見に行ってきた。これは櫛田神社の地元・上川端地区に飾られているもので、普通この高さ(10m)では、電線等障害があり、走れず、別途「舁き山」を造り、それを担ぐ。しかし、上川端だけは例外で、この飾り山が「走り山笠」として、明朝はこれが走って宮入りする。当然出発点から、櫛田神社までの電線、信号機、標識などは伸縮式としてあり、明日は引き上げられる。写真はが表の八犬伝、が裏の瑞祥七福神
 江戸初期から始まったとされるこの博多祇園山笠も、明治に入り、福岡に路面電車を設置する際に、県知事より山笠廃止を提議された。電線に接触するのでと云う理由と、もう一つは締め込みに脚絆、地下足袋の裸同然の姿が問題視された。
Photo_26  そこで、舁き山は飾り山とは別途に作る(現在高さ4.5以下)こと、そして服装は当時の玄洋社(政治結社)のとりなしで、水法被を着用するという条件で折り合い、現状の姿になったという。だから、上川端流れのみが、この飾り山が走り山笠となる訳である。
 明朝は午前4時59分に走り山笠の幕が切って落とされる

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2012年7月12日 (木)

倭国の興亡130: 儀礼空間だった石神遺跡

 飛鳥寺の西方、飛鳥川との間の広場は、クーデター後の群臣が神々に王権への忠誠を誓った場所であり、神が降臨する神木(依代)である槻(ケヤキの古名)の大木がある神聖な空間だったという。
130  斉明天皇はこの神聖な広場に、須弥山像(左図)という仏教施設を設けた(657年)。仏も神ももまた、諸天(帝釈天、四天王)の住地であるばかりか神々の依代とも考えたらしい。
 須弥山像は図の如く、三段に分かれ、上段は仏教界の中心である須弥山を表現し、中断はこれを取り巻く山脈、下段は水波文を表現している。(1902年(明治35)に旧飛鳥小学校近くの水田で3個の像を発掘)。
 翌1903年、すぐそばから岩に腰かけた老翁と寄り添う老女を彫刻した石人像(下図)も発掘された。これも像の口から水が噴き出す噴水石で、須弥山像とセットの石造物と見られる。須弥山像が出土した一帯は、多くの遺構が発見され、これらを石人遺跡という。遺跡は多くの棟が配置された独特の建物で、神聖な空間だったことを遺構的に示している。

130_3  斉明期、須弥山像の広場では、仏教法会など催したばかりでなく、トカラ(タイから654年漂着)、蝦夷、多禰嶋(種子島)などの化外の民(統治外の蛮族)の饗応をし、服属儀礼を行った、特別に整備された儀礼空間であった。蝦夷の場合、6世紀後半まで王宮近傍の河原で行われたが、その後推古朝では王宮の朝庭に移し、657年上記儀礼空間が整備され、須弥山像のもとが儀礼空間となった。須弥山像が撤去される天武・持統朝まで、大槻のもとでの蝦夷や隼人・南嶋人の服属儀礼は続くが、701年の大宝律令以降は絶えた。
 即ち、天皇自らが”神”であり、究極の権威の地位を確立した段階では、神を媒介した服属儀礼は不要となったのである。

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2012年7月11日 (水)

電力は本当に不足?

 ここんところ、急に蒸し暑くなって、且つ気温は30℃を越えている(昨日福岡33.1℃)。が、風を通せば冷房入れなくとも何とか過ごせる。九電はピーク時10%不足と予報し、原発の必要性を訴えるが、昨日の需要電力量は発電能力の80%だったという。どうも電力業界は信用が置けない。本当の民間企業並みのシビアさがないようだ。東電の無駄排除にしても、同じ。

Photo  :ヒバ(檜葉)の実。今日は変わったものをと思ってヒバの実を載せた。小さな可愛い花を付けるが、実はこの様にオドオドシイものだ。ヒバは檜と似ているが別物で、アスナロ(翌檜)の総称。殺菌性の高いヒノキチオールを多く含み、腐りにくい。中尊寺はヒバで出来ている。
Photo_2  マツヨイグサ(小待宵草)。同属の待つ宵草が沢山咲き始めたが、この小待つ宵草よりやや大きめ。これは小さな花で、夜明けから道路わきなどに咲き、日が射し始めるとすぐ萎むので、シャッターチャンスが少ない。勿論雨にも弱い。

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2012年7月10日 (火)

博多祇園山笠始まる

 山笠の始まりは準備は6月から、山笠行事の開始(山笠展示など)は7月から、そして本番の祭り行事は昨日の「お汐井取り」から始まった。今日から本番の「追い山」をめざし、実際の神輿を担いで走る体力慣らしに入る。11日朝山、12日追い山馴らし、13日集団山見せと続き、15日早朝の追い山を迎える。これが終われば梅雨も終わり、夏本番となる。で、今日も梅雨最中の花を紹介。
Photo  アメリカチョウセンアサガオ(亜米利加朝鮮朝顔)。ここの朝鮮は「外来の」の意味らしい。北米・メキシコに多く分布。毒性成分があり、麻酔作用があるところから、華岡青洲がこれから麻酔薬を採ったという。但し花は甘美な香りを発し、香水に使われる由。
1  アベリアハナゾノツクバネウツギ(花園衝羽根空木)。道路、公園に多く使われているので名は知らなくとも衆知の花。アベリアはツクバネウツギ属をさし、その中のハナゾノがこれ。唯、アベリアが言いやすいので使われてる
32  エドワードゴーチャー。上のアベリアの一種で、アメリカで作出された品種。作出者の名前から由来。白に代り、ピンク系のアベリアで、背が低く、家の庭などに多用されだした。

 

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2012年7月 9日 (月)

梅雨中休み

 今日は梅雨も中休みか、珍しく朝から晴れ上がっている。早朝ウーキングに切り替えて約一週間になるが、朝は涼しく、元気もあるので、気持ちよく歩ける。又行き交う人も比較的若く(現役社会人?)、高校生は、朝補修か部活の人達が朝早く、挨拶も元気にしてくれる。残念なのは、朝6時では曇りの日はフラッシュでないと写真が撮れないことだ。で、撮りたい写真でなく、撮れた写真を紹介。
1  ムクゲ(木槿)八重。朝咲いて、夕方萎むので「一日花」と云われるが、これは誤解で、又翌日開き夕方萎むを繰り返す。一重は一花は2~3日で散ってしまうが、八重だと長いもので2週間ぐらいは持つといわれる。
2  ムクゲ(木槿)一重。その誤解のせいで、人の世の短い儚さのたとえで「槿花一朝の夢」なる言葉もあり、華道では嫌われるが、茶道や俳句界では好まれる由。一茶の句「それがしもその日暮らしぞ花木槿」がある。
Photo  アフリカハマユウ(アフリカ浜木綿)。南アフリカ原産、明治初めに導入近頃までインドハマユウと思われていたが、最近やっと正確に同定され、呼び名も変わった由。関西以西なら戸外でも越冬する。これは近くの団地内に咲いていたもの。

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2012年7月 7日 (土)

倭国の興亡129: 飛鳥の石造物-酒船遺跡

129  1992年に飛鳥・板蓋宮跡の東方丘陵に砂岩の切石を4段積みした石垣が数十メートルに渡り発見された。これは「書記」の記事とも一致するといわれ、丘陵全体を大規模に造成の上、石垣を巡らしていることが分かった。殆ど倒壊しているが、モニュメントとして造られた建造物で、酒船石遺物写真は酒船石、長さ3m)と名付けられた。酒船石の用途は、酒の醸造説、灯油製造説、朱製造説、祭祀説など諸説がある。
129_2  2000年にこの遺跡の一角で、亀型石造物が見つかった。石英閃緑岩を亀型に加工したもので、長さ2.4m×幅2m、左右には手足、真ん丸な甲羅部分はくり抜かれ水槽状になっている。近くに湧水があり、そこから溝を伝わり、手前の水槽に溜まり、その上澄みが亀型石槽に流れ落ち溜まって、一杯になると尻尾の穴から外の溝に流れ出る仕組みの導水施設下図)である。

 庭園の導水施設、或は禊の施設、半島の影響の道教の神仙思想による施設等々諸説がある。但し、道教は国内では受容されておらず、清浄な水を造っているのは聖水として意味を持ち、亀型とも合わせ祭祀・儀礼用に使用されたことを伺わせる。
 さらにその設置空間が高い尾根に囲まれ、石敷きや石段に装飾された小規模な空間であることから、人工的・閉鎖的空間と云うことも、祭祀・儀礼用説を補強する。
 即ちここは大王の禊に関連する施設であり、王権には自らの聖化のための設備が必要だったとする見方が強いようだ。

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2012年7月 6日 (金)

パンダ誕生!

 今日の話題は何と云っても”パンダ誕生”だ。上野動物園の飼育員は手探りの奮闘だったようだが、まず自然交配での出産。そして産後、授乳して初めて母親は親としての行動を取るので、授乳しなかったら親は子育てしない。ところが今回はいずれもパス。非常にうまくいっているようだ。尚、日本でパンダ出産の年は景気がよくなる(過去のデータ)という。何もかもいいことずくめで、うれしい限りである。
 いい話に、いい花を添えよう。
Photo  クサギ(臭木)。名前がよくないが、木・葉が薬品臭を放つので付いた名。但し、花自体はとっても甘い香りを出す。花期は7月~9月だそうで、これは未だ開花し始め状態。秋には瑠璃色の実が付くが、鳥の大好物ですぐ食べられる由。生垣の間から出ていた。
Ka  ムラサキエノコログサ(紫狗尾草)。普通のエノコログサとほとんど同じだが、穂の繊毛が紫がかっており、エノコログサの変種である。日当たりのよい道端の土の堅い所に生える。これは鉄道の踏切に咲いていた。夏から咲くが本来秋の花であるそうな。

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2012年7月 5日 (木)

驚いたね!

 今朝驚いた事二つ。一つは物質の構成物質である素粒子中で、これまで確認されていなかった「ヒッグス粒子」と見られる新たな素粒子が見つかったと欧州合同原子核研究所が発表したこと。原子を構成するのは原子核と電子、その原子核を構成する陽子と中性子、これらを構成するのが素粒子。その内、未確認であったヒッグス粒子が確認された。即ち、素粒子の「標準理論」が認証されたという一大発見である。
 も一つは京都で中2の学生がパソコンを強制終了させるウイルスを作成し、補導されたというニュース。インターネットで情報を集め作成したという。インターネットのソフトが判ってないと出来ないことだろうが、今時、この様な中学生もいるのかと驚いた。
 世の中、どんどん進化しているが、自然はこれまで通り季節を変じている。今時の雑草の花を紹介。
Photo  サフランモドキ(サフラン擬き)。これは和名で、本名ゼフィランス(Zephyranthes)。中米原産で江戸時代に渡来。サフランに似ているところからの名前。タマスダレとも似ている。花期は6~8月と長い。今は野生化して草叢に咲いている。
Photo_2  ヤブガラシ(藪枯らし)。藪を覆って枯らしてしまうところから付いた名前。和名は貧乏葛、手入れもできない貧乏暮らしの庭に繁殖。但し、全草乾燥させた生薬は利尿、鎮痛、解毒作用あり、擂り潰しは打身、骨折、虫刺されに効くという

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2012年7月 4日 (水)

梅雨末期か、北部九州大豪雨

 昨日から、今日にかけて北部九州は大豪雨。特に酷かったのは大分の耶馬溪町と日田市。耶馬溪(時間91ミリ)では渓谷から流れ出る山国川が氾濫し、観光地の土産物店街が腰上までの浸水で、中には倒壊した店も。又日田(時間80.5ミリ)では筑後川に入る花月川堤防が決壊、下流の市街地が浸水、中には流された家もある。こんな被害は初めての声もあった。
 幸い、我が福岡市東部は雨も少なく被害なし。梅雨末期には彼方此方でいつも水害が起こる。地震対策と同様水害対策も必要だろうが、山の植林が最大要因とか。治山治水は昔から政治の要諦だった
 今日は、その雨の中元気に(めげずに)咲いている花。
Photo  ヒメツルソバ(姫蔓蕎麦)。ロックガーデン用に明治期に導入。葉に暗緑色の模様がある。無いのは単なるツルソバ。強い草で、コンクリートの隙間にも生え、舗装道路の片隅にはびこっている。花は1cm大のもの。花期は5月~秋。葉は紅葉する。
Photo_2  ホウセンカ(鳳仙花)。昔懐かしい花だが、最近は少ない。今は雑草化して、道脇に咲いていた。昔は爪を染めるのに使われ、ツマベニ(爪紅)の名がある由。果実ははじけて遠くへ種を飛ばす。花期は7~9月まで。

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2012年7月 2日 (月)

倭国の興亡128: 古代都市の発祥ー飛鳥宮発掘

 「伝承板蓋宮跡」と名付けられた飛鳥宮跡は、三つ以上の宮殿跡が重なり合って眠っていた。最近の遺跡発掘による宮殿遺構と文献に見える王宮との比較検討が行われ、初期の古代都市ともいえる姿がうっすらと見えてきたのである。
 最下層の遺構は宮殿跡かどうか不明であるが、上下二層の宮殿遺構のうち、下層は出土土器類から640年前後に造営された宮殿とみられる。そうすれば、飛鳥板蓋宮の時期である。上層は宮殿の中心部分の内郭が造営された時期で、660年頃というから、ちょうど斉明期に当る後飛鳥岡本宮の時期になる。
 更にその後内郭の東南にエビノコ郭が増設されるが、この宮殿跡は694年の藤原遷都まで存続するので、飛鳥浄御原宮(アスカキヨミガハラノミヤ)ということになる。
128_2  従前、これら王宮はそれぞれ別の場所に営まれたと考えられていたのが、すべて同じ処に重なって所在していた。また、後飛鳥岡本宮も飛鳥岡本宮の故地に造営されたはずだから、遺構はまだ確認されてないが、この場所にあったに違いないと云われている。これらを順番に並べると 飛鳥岡本宮(舒明朝)-飛鳥板蓋宮(皇極朝)-〔難波遷都〕-後飛鳥岡本宮(斉明期)-〔近江遷都〕-飛鳥浄御原宮-〔藤原遷都〕 となり、舒明朝以降、藤原京が完成するまで、短期のものを別にすれば、飛鳥の王宮は全て伝承板蓋宮跡に所在したことになる。

 元来、王宮は大王の代替わりごとに、即位の壇が築かれた場所に営まれてきたが、7世紀前半、舒明朝頃から王宮名は新たに命名されたが、場所が固定して来るのである。王宮の所在地が固定してきたことによって、飛鳥には次第に街並みが形成されてくる。寺院や貴族の邸宅、官衙(役所)などが建ち並び、特に斉明期では大規模な造営工事が行われ儀式を行う広場や饗宴を催す園地、漏刻(水時計台)など王権の施設が各地に設けられた。
 この時期、一代限りの王宮から、恒久的な街並みが伴う「王都」へと大きく変貌しつつあった。もっとも、藤原京以降の碁盤目のような「計画都市」のような都城とは原理的に異なり、王権の公的施設と寺院・邸宅が混在した王都であった。

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2012年7月 1日 (日)

日本人は順応的?

 今朝の新聞を読んでたら、偶然にも?日本人の特質をのべた箇所が二つあった。
 一つは「時代の風」と云うウイークリー論欄で、仏経済学者・思想家のジャック・アタリ氏が「日本は(横並びを重視する)順応主義がはびこっている。それでは進取の精神を発揮しなくなる」と述べている箇所がある。
 も一つは、日曜版にある大竹昭子氏の「日和下駄とスニーカー」東京の街を紹介する欄に、休店が多くなってしまった下町で、豆腐屋がないかと聞くとおじさんは「『あったけどやめちゃった。みんな閉めちゃった』と歯を見せて大きく笑った。こうゆう困った時、困った顔をせず、破顔で応える日本人を外国人は理解に苦しむだろう。」とある。
 両者とも的を得た日本人論と思うが、この気質、対応態度は「大昔から『和以て尊し』と云う気風で、長い戦国時代も、誰にも制圧されていまうことなく、列島を守ってきた」要因だと思うが、(文化・技術面でも)外部に打って出ることには、弱いのでなかろうか。
 今日も昨日に続き、今咲きだした真夏の花を紹介。
Photo  キャッツテール(Cat’s tail)。あまり見かけない珍しい花で、近所の花屋で教えてもらった。猫の尻尾に似ているからと云うが、指ぐらいの大きさの花だ。インド原産の由。これもグランドカバーには良いかも知れない。
Photo_2  フサフジウツギ(房藤空木)。であろうと思っている。この種の庭木は品種改良されて、
いろんな形や色の花があるようで確信はない。香りがよく蝶がよく集まることから、バタフライブッシュの名がある由。中国原産。

 

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