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2012年7月17日 (火)

倭国の興亡131: 斉明朝の北方征討

 斉明朝の本格的な蝦夷攻略は、越(越前、越中・越後の総称)と信濃の兵を集め、渟足(ヌタリ)(現新潟市)の柵(城柵)と磐舟(現村上市)の柵の設置から始まった。北方への関心は北陸から越後方面に移り、更に出羽(山形・秋田)方面に移った。
 越の国主・阿部比羅夫は、658年4月、軍船180艘を率いて齶田(アギタ)(現秋田)に来航した。齶田・渟代(能代)の蝦夷は、征討軍の威をおそれ、戦わず服属したので、渡嶋(北海道)の蝦夷を有馬浜に招いて、大いに饗応して帰還した。この年の7月、新たに服属した蝦夷含め200人余が来朝して、調を貢献した。倭京では盛大な饗応や賜物が行われ、族長には官位を授けた。
131_2  翌659年3月、比羅夫の2回目の遠征が出発。先ず飽田(秋田)・渟代・津軽の蝦夷350人余と胆振鉏(イブリサエ)(北海道南部?)の蝦夷20人余を一ヶ所に集め大いに饗応して禄を授けた。この回は北海道まで遠征したようである。
 更に翌年の660年3月3回目の遠征北海道の渡島で、蝦夷3千人が助けを求め、攻めてきた粛慎(アシハセ)(蝦夷と異なる民族)と戦闘し、これを破った。同年5月、粛慎人47人が来朝し、飛鳥の須弥山像のもとで服属儀礼がおこなわれたのである。凱旋した比羅夫は生捕りしたヒグマ2頭とヒグマの毛皮70枚を献上した。

 最近、古代東北北部と北海道が密接な関係に在った事が解ってきたが、中央政府の征討軍が北海道まで行ったのは、唯一これだけと云われている。
 尚、659年7月出航の遣唐船には蝦夷男女二人を同道し、高宗皇帝に謁見し、蝦夷国が倭国に朝貢していると説明している(新唐書や通典など中国文献にも記載)。これは、倭国が朝貢国を従えた「小帝国」であることを主張したかったのである。治天下大王への朝貢国任那が645年を最後に廃絶するのに代わって、「蝦夷国」が「天下」的世界の存在にとって、重要な政治的意味を持つとの見方がある。
 唐にまでわざわざ蝦夷を連れて行く位であるから、蝦夷や粛慎の来朝と須弥山像のもとでの服属儀礼は倭王権にとっては重要な政治的セレモニーだったのだ。これを見ると斉明朝の石の王都建設と北方遠征とはこの儀礼空間で結びつき一連の王権の神聖化、強化策であると理解できるのである。

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