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2012年6月15日 (金)

倭国の興亡124: 巨大王宮の必要性(前期難波宮)

 大化改新を考古学的に裏付けるのが難波宮跡の遺跡である。「書記」には乙巳の変が起こった645年に難波長柄豊碕に遷都したとある。しかし、書記記述をまとめると、改新政権の難波の最初の王都は、外交施設があった小郡で、それを宮へ改作を進め647年小郡宮が完成した。その後間もなく難波長柄豊碕宮の造営が始まり、651年中にはほぼ完成した。同年大晦日に孝徳天皇が遷宮し、翌9月に竣工した。同年大晦日に孝徳天皇が遷宮し、翌年翌年9月に竣工した。その威容を書記は「殫(コトゴトク)に論(イウ)べからず」と形容した。
 難波は半島や中国との交流の窓口で、そこへの王宮の移動は、激動期の半島情勢への早急な対応可能な体制の構築が、新政権には緊急の課題だったことを示している。
124  難波宮遺跡は前・後期2時期の遺跡が重なっている。前期難波宮の全容は不明ながらも、中枢部の朝堂院は東西233.4m×南北263.2mの規模で内部に14堂以上の朝堂がならび、内裏を画する内裏南門は柱間7×2間で、平城宮の正門・朱雀門を凌ぎ、古代官都の門では最大級であった。
 但し前期難波宮は板葺で瓦がなく、土器などの伴出遺物も殆どないので、造営年代が確定されていない。但し、。1999年に「戊申年」の木簡が出土し、遅くとも648年には工事が始まったと見られる。

 この後、中大兄皇子の飛鳥遷都、斉明天皇の後飛鳥岡本宮、更に667年の近江大津宮、壬申後の飛鳥浄御原宮が造営されるが、これに匹敵する朝堂院694年の藤原宮までない前期難波宮は、改新時の王権の政治機構や儀礼形態に似つかわしくない、実用を越えた規模であると云われる。
 朝堂の数が14と多いが、夫々の殿舎の規模は小さく、むしろ中央の広場である
「朝庭」の広さが際立つという。大王の権威を高めるために、一君万王思想の根拠を与える「天つ神の事依させ=神から地上の支配の付託をうける)」の観念を臣下に喧伝し、浸透させる場が「朝庭」だった。臣下を集めた朝庭で、「事依させ」を受けた大王だけが天下を統治できる正統性を持っていることを宜り聞かせて、大王の隔絶した権威を繰り返し感得させた
 即ち、この
朝堂院は、大王の隔絶した権威を視覚的に表現した空間と云われるのである。

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