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2012年6月 4日 (月)

倭国の興亡121: 大王の譲位と「改新の詔」

 蝦夷自刃の翌日、皇極中大兄皇子に譲位の意志を伝えた。中大兄は即答を避け、鎌足に相談したところ、兄・古人大兄が健在ゆえ、差し置いての即位はよくない。ここは叔父の軽皇子を立てれば、人望も得られると答えた。蘇我打倒の直後の即位は権力欲とみられ、古人大兄を立ててはクーデターの意味がない。叔父のもとで実権を握れば、体よく兄をはずし、権力を私物化した蘇我打倒の大義名分も立つとの、鎌足の策士らしい妙案なのだ。
 軽皇子も固辞し、古人大兄を推したが、古人も辞退し、飛鳥寺にて剃髪し僧形となって、吉野に去った。これで、叔父の軽皇子が即位し孝徳天皇となった。王位継承での譲位は初めてであったが、群臣による大王推戴が、譲位へと変わり、大王の主体性が強まって、「天皇」更に近づいたのである。

 こうして新体制が固まり、中大兄皇子を「皇太子」とし、左大臣は長老・阿部内麻呂、右大臣は蘇我石川麻呂が任じ、中臣鎌足を内大臣に任じて、大王の側近として、渡来学者の旻法師と高向玄理を政権のブレーンとして国博士に任じた。
 新政権は「大化」の元号を立て、矢継ぎ早に新しい施策を実施した。
121_2  翌646年の元旦に、4ヶ条の改新の詔(ミコトノリ)を発布した。
第1条:カキとヤケの廃止。天皇の立てた子代の民・処々の屯倉と、臣・連・伴造・国造・村首の所有する部曲(カキ)の民・処々田荘(タドコロ)を廃止する。代りに大夫以上には食封(ヘヒト)を、官人・百姓には布帛(フハク)を支給する。
第2条:京と地方支配の制度:京師の制を定め、畿内国司、郡司・防人・駅馬・伝馬などを置く。
第3条:戸籍・計帳・班田収授の法制定:50戸一里・田祖の制を定める。
第4条:旧来の賦役の廃止と田の調の実施:田の調・調の副物の制を定め、官馬・兵器・壮丁・采女の賦課法を定める。
 以上の詔に集約される一連の改新が行われたとして、「大化の改新」と称されるが、1960年代には「改新否定論が」提起されるに至る。そこで、この信憑性については次回に掲載する。 

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