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2012年6月28日 (木)

倭国の興亡127: 斉明の重祚と有馬皇子の変

 孝徳帝の没後、中大兄皇子があれほどまでに情熱と資材を傾注して完成させた巨大王宮を短期間ですて、飛鳥に遷都した。それは母・宝皇女の意向に逆らえなかったからでないかと古代史学者・熊谷公男は述べている。
 宝皇女(前皇極帝)は譲位後も「皇祖母尊」(天王家の女性尊長)として、権威を保持し続けた。宝皇女は夫舒明の飛鳥岡本宮、皇極として飛鳥板蓋宮と長年、飛鳥の王宮で太后・大王として王権の中枢にいた。10年間難波で暮らし、大王家と貴族の故郷・飛鳥に戻りたくなったのであろうし、それが復位に結びついたと思われる。だから孝徳は拒絶し、宝皇女と中大兄らは夫婦仲を裂いてまでも飛鳥に戻った。還都現大王と前大王の権力闘争の産物だともいう。
 655年正月、宝皇女は即位し、斉明天皇となる。史上初の重祚(復位)である。かって、皇極として4年弱の在位は蘇我氏絶頂の時期で、帝はじっと屏息していたという。今度は中大兄の母として、その権威も絶大であり、自分の意志で政治した。

 斉明期にも謀略の匂いがする事件が起こる。有馬皇子の変である。有馬皇子は孝徳の皇子で、当然、斉明・中大兄母子に恨みを抱いていた。それを悟られぬように、狂人を装っていたという。657年有馬皇子が紀伊の牟婁温泉に湯治に出かけ、「病が癒えた」と云う話を聞いて、斉明も中大兄を伴い出かけた
127  この留守の間、有馬皇子のもとに留守官(大王の留守を預かる)の蘇我臣赤兄が訪ねてきた。赤兄は斉明の失政、即ち民の財を集積し、長い渠水(運河)を掘ったり、石材での大掛かりな工事など、公費を無駄使いしておるのを批判した。(図は有馬皇子の墓と歌碑
 それで、見方を得たと思った皇子は挙兵を決意し、赤兄邸に赴いて謀議を凝らした。その夜半、赤兄の命を受けた物部朴井鮪が「宮造る丁」を率いて有馬邸を囲み、皇子を逮捕した。
 捕えられた皇子と与党は紀伊の天皇のもとへ送られ、皇太子の尋問を受けた。2日後藤白坂(和歌山・海南市)で絞首刑に処され、一味の守大石、坂合部薬らは流罪となった。書記では中大兄が登場するのは尋問の箇所だけである。
 従来、これも中大兄の謀略と見られたのは、蘇我赤兄が中大兄の政権で左大臣になったからの解釈であろう。有馬を葬ろうとする最も強い動機を持つのは斉明自身で有ったろうと云われている。有馬皇子は父孝徳から強引に政権を取り返した斉明を恨んでいたからである。

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