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2012年6月 8日 (金)

倭国の興亡120: 改新の内実(Ⅰ)使者派遣とクニ解体

 新政権の急務は、様々な弊害を生み出した「部民制」(諸民族によるカキ(部曲)の分割領有体制)を解体し、代ってすべての民を「公民」(オオタミタカラ)として支配する一元的な支配体制を創出し、対外的には支配層の権力を一元的に集中し、風雲急な半島情勢に即応できる体制を作ることであった。要するに支配層内部の君臣関係と、王権による全国支配の体制とを共に一元化した支配体制の構築である。これが「公地公民制」という支配体制の形成を目指した要因である。
 但し、これを短時日のうちに実現することは、改新政権の置かれた歴史的状況及びその力量からも、到底不可能だった。だからまず一君万民思想を政治理念とし掲げ、ウジごとのタテ割り支配が悪であることを諸氏族に訴えながら、支配体制の一元化を目指さざるを得なかった。(下図は孝徳天皇即位の図
122_2  改新政権のすべての政策の基礎となったのが、諸国に使者(ミコトモチ)即ち宰を派遣して国造の支配領内で実施する様々な施策である。これは特定場所に駐在せずに、管轄地域内を巡回しながら任務を遂行した。使者の主な任務
.任地に於いて「戸籍」を作り、「田畝(デンボ)」を調査すること。
(コオリ)の官人の任官希望者の系譜を調査し、中央に報告すること。
.国造などの在地首長の保有する武器を集め、武器庫を造り王権管理下に置くこと。
1の戸籍は律令的な戸籍ではなく「民の元数を録す」とあるように領域内の戸口の総数を把握することだったようだ。「田畝」の調査とは、これも領内の田地の総面積の掌握であったと思われる。前者は仕丁の徴発や「男身の調」の賦課基準となりうるもので、後者は田祖賦課に必要である。何れも王権の一元支配の実現には絶対に把握せねばならぬ数字である。
2の評はクニを解体し、評という新しい行政組織を置くための施策である。部民制を根底で支えたのは国造や伴造などの在地首長の人格的な隷属関係に基づく支配体制だった。部とカキの一体性が様々な弊害を生み、行き詰まりとなりつつあったこの支配体制が、最大の政治課題であった。勿論国造の地位を相対的に弱め、王権の地方支配の基盤拡大の狙いがあった。
は国造領内の武器の収公であり、武器自体は地方に留め置き、それを王権の管理下に置くものである。これは国造の勢力削減に直結するのは明らかである。

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古代史、邪馬台国」カテゴリの記事

コメント

『大和民族大移動』
*日本書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治*

失礼無礼きわまりない話ですが、あなたが家系図を作成するとして、
実は、あなたのおじいさんが泥棒だったら、あなたはどうしますか?
昭和18年に隣の酒屋から酒5升盗んだ人だと正直に書けないですね。
でも、良心の呵責から、なんとかして泥棒行為を書き残したいですよね。
簡単です。じいさんに弟があり その架空人物が、盗んだ事にしましょう。
おっと、じいさんの弟はお墓が無くばれますね。では干支60年古くして
明治16年に、ひいひいひいじいさんの妹の夫が盗んだ事にしましょう。 

書紀は天皇様の見事な万世一系の家系図を書いた推理小説です。
太古から日本を統治していた事としたい。でも本当の事も書きたかった。
そのため、架空人物を多数創造した。時代も原則60年単位で古くした。
これが、真実を残すために書紀が取らざるを得なかった編集方針です。
もちろん、真実そのままの事も、どうしても書けない真実もありました。

では、架空実在人物が新旧入り混じった小説からの真実の救出法は?
 ①実在したご先祖のお墓や使用物の年代を正しく求めましょう。
 ②貴重な金石文を正確に読みましょう。
 ③地名や人名の語源を冷静に考えましょう。
この3つを追求整理したあとで 初めて日本書紀を読むべきですね。

石渡信一郎は、まず先に、上記①②③を 徹底的に、探究しました。 
①古墳や須恵器・土師器・埴輪の絶対年を正しく定めました。
 (過去の気象や磁気の変化を考古学の原則で追及した後に)
 例えば、弥生後期(5期)は260年頃から350年頃までとしている事
  及び 稲荷山古墳550年頃 で、鉄剣の辛亥年=531年
②七支刀・隅田八幡鏡・武寧王陵碑・稲荷山鉄剣を正確に解読した。
 (すみません。解読結果詳細は石渡氏と林氏の本を読んで下さい。)
③地名人名の語源を音韻変化の基本原則にのっとり追求しました。
 韓(カラ)⇒加夜(かや)・軽(かる)・茶屋(けや)・秦(はた)
大韓(カカラ)⇒大軽(おおかる)・各羅(かから)
南韓(ナムカラ)⇒難波(なには)・長柄(ながら)・中(なか)
東韓(スカラ) ⇒菅谷・早良(さわら)・日十(そか)・蘇我(そが)
大東韓(カスカラ)⇒飛鳥・春日・足柄・橿原・八幡(はちはた)
大東韓(キスカラ)⇒一須賀・石川・鬼前(きせ)・去来紗(いざさ)
大東韓(クスカラ)⇒樟葉・太秦・宇治(うじ)・太(ふつ)
昆支(コンキ)  ⇒誉田(ほむた)
  
今では信者のむらかみからむですが、石渡論の理解に半年以上です。
通説の古墳年代の根拠を知らず、通説年代は当たり前の事でした。
即ち、誉田山も大仙古墳も5世紀初頭と 無意識に思っていました。
さらに、百済皇子余昆が書紀では昆支だという事を忘却してました。

その昆支が倭の5王の武で、誉田山古墳に眠る応神でもある。
その弟が継体であり仁徳でもあり仁徳から武列までは架空である。
獲加多支鹵は欽明であり継体の子ではなく昆支の子である。
その息子がアメノタリシヒコで用明で蘇我馬子で聖徳太子でもある。
とくれば、なんでもありの飛んでも説をよくもここまでまじめに書くなあ。
石渡信一郎も林順治も トンデル人だ。と思ってしまいますよね。

しかし、音韻変化の原則から『飛鳥の語源は大東韓(かすから)だ』
の説明を熱心に 語っている文章の迫力には心を打たれました。
で、稲荷山鉄剣の辛亥年=531年で古代史を語る人は誰もいない。
の文章を読んだ時、この理論が他説を圧倒する事に気づきました。
通説の古墳年代を無意識に受け入れていた私がトンでいたのです。

なんと、小6の私の息子の社会の参考書にも書いてありましたが、
通説は稲荷山鉄剣の獲加多支鹵大王を書紀の中の雄略大王として
辛亥年=471年としてた。これを絶対基準に古墳年代を決めていた。
ワカタケルは大泊瀬幼武じゃない可能性の追求が甘いままでした。
おかしな話ですよね。書紀の記述が真実かどうか検討しているのに
書紀の記述の大泊瀬幼武の実在は真実からスタートしていたなんて。

結果的に、通説での全古墳の絶対年は60年以上古すぎたのです。
4世紀前半は弥生時代で、古墳時代はAD350年からなのです。
これは寒かった弥生後期5期が260年~340年頃でも裏付けれます。
『通説の古墳年代を 60年以上新しくして古代史を見直すべき』
との提案が石渡説の基本で他説との相違点で最重要ポイントです。
これが理解できないと石渡論はトンでる空想物語になります。

投稿: むらかみからむ | 2012年6月12日 (火) 23時20分

むらかみからむ様。貴重なお話有難うございました。古代史の深みに嵌りこんでしまうとますます判らなくなっています。

投稿: 山猿 | 2012年6月14日 (木) 08時55分

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