« 空梅雨が続き、暑い日 | トップページ | 雨が降らない梅雨 »

2012年6月12日 (火)

倭国の興亡123: 改新の内実(Ⅱ)部の廃止と評の設置

 新政権の改革の矛先は中央にも向けられた。中大兄皇子によって646年に出された「皇太子奏請文」により実施された「部」の廃止策である。一君万民思想を掲げ、一元的支配体制を目指しながら、実際はかなりの既得権益が留保されたのは、実態の急激な変化より、意識改革に重点を置いたと見られる。
 648年と翌年の2度に亘る「品部廃止の証」で「品部」の全面廃止が宣言された。これは部民制の全面廃止の方針を表明したものである。
 王族や臣・連のウジが領有している品部を廃止して「国家の民」とし、臣・連・伴造のツカサ(官)も廃止された。それだけでは諸氏の経済的基盤が消滅するので、代替措置として諸氏の人々に冠位を授けて、新しい官職につけ、調庸をとして支給する方針が提示された。

 しかし、新しい政治機構に対応した給与制度は極めて不徹底に終わっている。八省が設置されたのは大宝律令の時である。なにがしかの官制整備は行われたと思われるが、647年649年冠位制の改定が行われ、664年給与制度が発布され、「甲子の宣」で諸氏に民部・家部が支給された時も、依然としてウジ単位であり、食封制度に切り替わるのが天武朝に入ってからと見られるので、調庸を禄として支給する制度は全く実現しなかったのは確実である。
 こうして中央の有力なウジの所有する部は全廃の形をとりながら、ウジの既得権は大半が温存されたのである。唯すべての民は「公民」であると意識され始めたのは大きな成果だった。
123 は公務旅行者が駅馬利用の際使用した駅鈴
 ウジの官僚化が不徹底に終わったのに対し、国造支配の解体はかなりの実効を上げた。それは「評(コオリ)」の設置だった。評は律令制下、国の下に置かれた郡(コオリ)の前身の地方組織である。701年大宝律令で郡となっている。
 孝徳期に一斉に建置されたか、天武朝まで順次移行したか論が分かれているが、649年ごろ諸国で国造のクニが一斉に評に編成替えされたらしい。
 評の評督、助督には国造が任命されている例が多いが、物部。中臣など国造以外の任命の例も少なくないという。安定した地方支配を行うためには、どうしても伝統的な権威を持つ有力首長のの力が必要だったのである。

|

« 空梅雨が続き、暑い日 | トップページ | 雨が降らない梅雨 »

古代史、邪馬台国」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/534272/54941296

この記事へのトラックバック一覧です: 倭国の興亡123: 改新の内実(Ⅱ)部の廃止と評の設置:

« 空梅雨が続き、暑い日 | トップページ | 雨が降らない梅雨 »