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2012年6月 1日 (金)

倭国の興亡120: [異説] 「乙巳の変」の真相

 〈乙巳の変〉は皇極女帝と弟の孝徳天皇による共同謀議であったとする説(遠山美都男(学習院大)を紹介する。
 先ず最初に、変後に皇極大王から孝徳天皇(実弟)へ史上初の譲位が実現している。書記では3人の王子の譲り合いの末、孝徳に落ち着いたとしている。そして、古人大兄(中大兄(天智天皇)の異母兄)の飛鳥寺での出家によって締めくくられている。だが、飛鳥寺は蝦夷の甘樫丘から近い場所だ。もし、古人大兄が強制的に出家の儀式を行わせられたとするなら、甘樫丘には、未だクーデター勢力に反撃できる人たちが健在だったことになる。
 実際は古人の出家は蝦夷誅殺より以前の事であった筈だ。それ故にこそ蝦夷や蘇我本家は反撃に必要な「錦の御旗」である古人大兄からは既に見捨てられていたので、何の反撃も出来ず、「無条件降伏」しかなかったのであろう。
120  当然のことながら、古人大兄の出家が蝦夷誅殺以前なら、皇極の突然の譲位に伴う3王子の互譲の話は成り立たない。即ち3王子互譲は事実と異なる捏造された話だという。更に、皇極の突然の譲位表明そのものが事実でないと思われる。(図は皇極の飛鳥板蓋宮(イタブキノミヤ)
 13日蝦夷誅殺、翌14日皇極譲位表明、同日孝徳が即位と運んだのは当初から王位譲渡の相手は決まっていたとみるべきである。これが所定の行為なら、クーデターの目的の第一は蘇我本家が押す古人大兄の即位阻止にあった。そして、クーデターを断行したのは王位を譲り受けた孝徳その人だった。故に中大兄皇子は鎌足と共に政変の実行部隊であったに過ぎない。この時の皇子ははまだ20歳であった。

 孝徳に譲位した皇極は「皇祖母尊(オオミヤノミコト)」の尊称を奉られ。654年孝徳の没後直ちに王位に復帰している(斉明天皇である)。皇極の譲位は同母弟に王権王位を分与し、将来王位に復帰することを前提に、この時期特有の政治課題に取り組むために行われた。それは、642年即位以来、政治課題としていた飛鳥板蓋宮を中心とした都市空間の構築である。後に「倭京(ヤマトノミヤコ)」と呼ばれた都市建設である。
 孝徳は「大化改新」と呼ばれる大変革を実行した。それは皇極が目指す都市建設に不可欠の物資と労力を民衆から大量且つ円滑に徴収するシステムの構築であった。乙巳の変はこの姉弟による「共同謀議」だったのである

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