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2012年6月20日 (水)

倭国の興亡125: 改新後の謀反・政変

 改新政権による政治改革は決して順調に進んだわけではなかった。支配層の政治的地位や経済的基盤にかかわる改革を進めてゆく中で、中大兄皇子が係わった政変・政争が何度か起きている
 645年、吉備笠臣垂なる人物が、古人大兄皇子が蘇我田口臣川端らと謀反をたくらんでいると密告、中大兄皇子は直ぐ兵をやって吉野の古人大兄を討たせた。垂(シダル)はこの時の功によって昇進し、功田も20町も貰っている。真相は闇の中でるが、垂を使って古人皇子を除いた中大兄の謀略と云う可能性も否定できない。
125  649年左大臣安倍内麻呂が死去した際、讒言者があった。「異母兄の石川麻呂があなたを殺害する機会を狙っています」という。讒言したのは蘇我日向。中大兄はこの話を信じ、石川麻呂に真実を確かめようとした。しかし、石川麻呂は「大王の御前でじかに申し上げたい」と云うだけだった。孝徳天皇の使者にも同様であり、孝徳は遂に兵を差し向けた。
 石川麻呂は難波からヤマトへ逃れた。その頃、石川麻呂の長男・興志は父を迎え、共に造営中の山田寺(写真:金堂跡)に入り、迎え撃つことを提案するも自殺した。これも、中大兄がだまされたことになっているが、中大兄が仕組んだ事件の可能性が高い。(書記は中大兄は無関係であることを強調している)。

 中大兄が絡んだ事件をもう一件。650年宍戸国(長門国)で白い雉が見つかり、朝廷に献上された。僧侶がこれは祥瑞だというので、年号は白雉と改元された。652年、難波長柄豊碕宮が完成する。が、653年事件が起こる。
 中大兄は突然新宮を捨て、飛鳥に戻ると言い出す。孝徳はこれを許さなかったが、中大兄は母・宝皇女(皇極)と妹・間人皇女(孝徳の大后)を奉じ、兄弟を引き連れ、飛鳥河辺行宮に還ってしまう。臣下の大半もそれに従い、最愛の妻にまで見放され、難波の新宮に取り残された孝徳は、失意のうちに翌年10月に没する
 冷酷非情の中大兄像は「書記」には描かれていなかった。書記は陰謀や策謀とは無縁の若き軍事担当の英雄しか描いていない。

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コメント

ふむふむ・・・・(・ω・´)、 おもしろいですね。

歴史の光と影なのでしょうか・・・・。
僕らの学んできた歴史が本当に正しいのかどうか、分からなくなってきました・・・・。


投稿: Y | 2012年6月21日 (木) 10時13分

 この頃の暦史の大部分は天武天皇の命により編纂がはじまりました。従って、天武系天皇に都合の悪いことや、対中国、半島との関係も、倭国に不都合なことは一切省いています。従って、昔の歴史教科書のかなりの部分は信じられません。と云うのが本当でしょうね。

投稿: 山猿 | 2012年6月21日 (木) 16時12分

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