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2012年6月

2012年6月30日 (土)

真夏の花が咲き始めた

 消費税問題より、はるかに重要と私は思っている電源問題。即ち原発を将来にわたって残すか否か。エネルギー・環境会議で政策決定まで、昨年12月開始してようやく今夏8月に取りまとめ閣議決定の予定である。確かに重要であり拙速は避けるべきだが、それにしても今少し早く方向性が出せないものか。そして、その決定過程で、実需者、一般消費者(家庭)、発電側など全部を見渡し、全部に不満不都合の無いように対処しようとする考え方には大きな苛立ちを感じる。要は原子力発電を将来どうするかを決める事。勿論人類にとって危険な分野の侵入が許されるのか。原子力以外、遺伝子組換えなども含め哲学的な高度な人類の知恵を以て基本決定し、それに基づきその実現を如何に段階的に進めるかを決めるべきであろう。梅雨時期のじめじめで気分が苛立っている次第。
 ところで、今日は真夏の花が咲き始めているのでそれを紹介。
Photo  ネムノキ(合歓の木)。花の名前は知っていたが、まじかで見たのは初めて。同じように葉を閉じるのにオトギソウがあるが、あれは触った瞬間とじるが、ネムノキは夜になるとゆっくりと葉を閉じるところから、眠りの木→ネムノキとなった由。花期は6月ー10月
Photo_2  サンパラソル(従来名:マンデラ)。今様の名前だが、サントリー遺伝子組み換えで開発した園芸品種でいろんな種類、色があるようだ。花期は5月ー10月と長く、1つの花の寿命も1週間と長い。実はこの花の名前も教えてもらって初めて知った。

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2012年6月28日 (木)

倭国の興亡127: 斉明の重祚と有馬皇子の変

 孝徳帝の没後、中大兄皇子があれほどまでに情熱と資材を傾注して完成させた巨大王宮を短期間ですて、飛鳥に遷都した。それは母・宝皇女の意向に逆らえなかったからでないかと古代史学者・熊谷公男は述べている。
 宝皇女(前皇極帝)は譲位後も「皇祖母尊」(天王家の女性尊長)として、権威を保持し続けた。宝皇女は夫舒明の飛鳥岡本宮、皇極として飛鳥板蓋宮と長年、飛鳥の王宮で太后・大王として王権の中枢にいた。10年間難波で暮らし、大王家と貴族の故郷・飛鳥に戻りたくなったのであろうし、それが復位に結びついたと思われる。だから孝徳は拒絶し、宝皇女と中大兄らは夫婦仲を裂いてまでも飛鳥に戻った。還都現大王と前大王の権力闘争の産物だともいう。
 655年正月、宝皇女は即位し、斉明天皇となる。史上初の重祚(復位)である。かって、皇極として4年弱の在位は蘇我氏絶頂の時期で、帝はじっと屏息していたという。今度は中大兄の母として、その権威も絶大であり、自分の意志で政治した。

 斉明期にも謀略の匂いがする事件が起こる。有馬皇子の変である。有馬皇子は孝徳の皇子で、当然、斉明・中大兄母子に恨みを抱いていた。それを悟られぬように、狂人を装っていたという。657年有馬皇子が紀伊の牟婁温泉に湯治に出かけ、「病が癒えた」と云う話を聞いて、斉明も中大兄を伴い出かけた
127  この留守の間、有馬皇子のもとに留守官(大王の留守を預かる)の蘇我臣赤兄が訪ねてきた。赤兄は斉明の失政、即ち民の財を集積し、長い渠水(運河)を掘ったり、石材での大掛かりな工事など、公費を無駄使いしておるのを批判した。(図は有馬皇子の墓と歌碑
 それで、見方を得たと思った皇子は挙兵を決意し、赤兄邸に赴いて謀議を凝らした。その夜半、赤兄の命を受けた物部朴井鮪が「宮造る丁」を率いて有馬邸を囲み、皇子を逮捕した。
 捕えられた皇子と与党は紀伊の天皇のもとへ送られ、皇太子の尋問を受けた。2日後藤白坂(和歌山・海南市)で絞首刑に処され、一味の守大石、坂合部薬らは流罪となった。書記では中大兄が登場するのは尋問の箇所だけである。
 従来、これも中大兄の謀略と見られたのは、蘇我赤兄が中大兄の政権で左大臣になったからの解釈であろう。有馬を葬ろうとする最も強い動機を持つのは斉明自身で有ったろうと云われている。有馬皇子は父孝徳から強引に政権を取り返した斉明を恨んでいたからである。

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2012年6月26日 (火)

緑の中の花々

 今日一体改革法案が衆院通過の予定だが、民主党内のゴタゴタには、国民も呆れてしまっているだろう。鬱陶しい梅雨時に、鬱陶しい政界であるが、早く晴れ上がってほしい。恵みの雨(当地は雨不足で田植えが困っている)で、山野の緑の中の花がひと際目立つ
Photo  セイロンライティア(Ceylon wrightia)。最近民家の庭によく植えられるようになった花。名前の通り原産地はセイロン(スリランカ)の熱帯常緑樹。高温、多湿に強く、6-10月が開花期で白い花が清涼感がある夏向きの花
Photo_2  エゾゼンテイカ(蝦夷禅庭花)。和名:禅庭花の中の1種で、ニッコウキスゲと同じ仲間の花でないかと推定しているが? 蝦夷禅庭花は北海道、東北地方北部では海岸や道端に野生。これは多分園芸種だろうが、山裾の草叢に何本か咲いていた。
Photo_3  キキョウ(桔梗)。通りがかりの民家の庭に咲いていた。咳や喉に効く薬草で、秋の七草。その薬効成分サポニンは昆虫には有害で、虫に食われない。万葉時代からあり、歌や、家紋など日常的ながら、飽きない花である。

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2012年6月24日 (日)

倭国の興亡126: [異説] 皇極・孝徳天皇の正体

 文定昌(百済史家)によれば、百済の武王の次女・宝公主が即位して皇極天皇になったという。「書記」舒明紀に本名が宝皇女であり、諡号の「天豊財重日足姫天皇(アメトヨタカライカシヒタラシヒメノスメラミコト)」の中にもタカラ(財=宝)が含まれること。又諡号に「天」の字が入っているのは外来の天皇であるとみなせる一方、百済系の舒明天皇の皇后になった点から推して、少なくとも彼女は百済系の王女(公主)に違いないとしている。
126_2  又「書記」皇極紀・元年条には百済から来た弔使の従者が言うには「……今年正月国主母薨 又弟王子児翹岐及び……」とあり、弟である王の息子の翹岐とし、皇極天皇に対し「百済の義慈王を弟の王」と称し、皇極天皇が義慈王の姉、即ち武王の娘と云っている。
 舒明天皇崩御のとき、次期天皇即位前に、義慈王は多数の近親や高官を倭国に送って、彼らが百済系の蘇我氏と協力して舒明天皇の皇后である宝皇女(宝公主)が次の天皇として推戴されるよう工作したものと思われる。即ち、王弟であり国務総理にあたる智積を日本に派遣し、多数の高官を送って、所期の目的を達したとされている。

 次いで孝徳天皇に移るが、「書記」は孝徳(軽皇子)は皇極とは師弟関係で、同母弟であるとしている。とすれば当然百済武王の王子である。諡も天萬豊日天皇(アメヨロズトヨヒメノスメラミコト)天豊財重日足姫天皇(読みは上記)であって、二度天皇になったことを意味する「重日」と、血縁を意味する「足」と、女性であることを表す「姫」を除けば、天萬豊と天豊財となり、何れも同じ意味の言葉となり、互いに姉弟関係に在ったと推定できる
 孝徳天皇に即位する前に倭国に渡った武王の王子は、「書記」孝徳紀6年条にある「塞城・忠勝」があるが、これを除けば皇極天皇即位直前に来日した大佐平(王に次ぐ官職)・智積しかいないから、彼が孝徳天皇に成り代ったとみなされる。
 孝徳天皇は新羅系だとする説もあるが、百済系が確かな中大兄皇子を東宮とした点と、倭国が新羅に対して人質を要求した点と、皇位継承においても何の紛争もなかった点から推して、「日本書紀」の記事通り孝徳天皇は皇極の同母弟、即ち百済武王の王子で義慈王の弟智積に違いないといえる。    

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2012年6月22日 (金)

勢いがある夏の花

 相も変わらず民主党内はゴタゴタが続いておる。もう国民はこの類の政争には飽き飽きしているのに、政治家だけが判ってないのか。天候も薄暗いじめじめが続くと思いきや、当地では雲一つない好天気。夏の花も勢いよく咲いている。
Photo  ノウゼンカズラ(凌霄花)。今頃は彼方此方に咲き目立つ花。この名は凌霄の字音によると云われ、霄は空・雲の意で、高い空に向かって咲く花を表している由。元気で艶やかな目立つ花は梅雨向きである。
Photo_2  マンネングサ(万年草)。セダム(学名)とも呼ばれる蔓性植物で、花は1センチ満たない小さなもの。黄色の他白や紅もあるそうな。庭の片隅でギッチリと敷き詰めた様に咲いているのもいいものである。
Photo_3  ドベキア。キク科の花。園芸品種は多いようで、花も10センチ近くのもあり、緑の中で鮮やかな黄色はよく目立つ。元気そうで強そうだし、我が物顔に長期咲くから、けなげなさがなく、余り好きではない

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2012年6月20日 (水)

倭国の興亡125: 改新後の謀反・政変

 改新政権による政治改革は決して順調に進んだわけではなかった。支配層の政治的地位や経済的基盤にかかわる改革を進めてゆく中で、中大兄皇子が係わった政変・政争が何度か起きている
 645年、吉備笠臣垂なる人物が、古人大兄皇子が蘇我田口臣川端らと謀反をたくらんでいると密告、中大兄皇子は直ぐ兵をやって吉野の古人大兄を討たせた。垂(シダル)はこの時の功によって昇進し、功田も20町も貰っている。真相は闇の中でるが、垂を使って古人皇子を除いた中大兄の謀略と云う可能性も否定できない。
125  649年左大臣安倍内麻呂が死去した際、讒言者があった。「異母兄の石川麻呂があなたを殺害する機会を狙っています」という。讒言したのは蘇我日向。中大兄はこの話を信じ、石川麻呂に真実を確かめようとした。しかし、石川麻呂は「大王の御前でじかに申し上げたい」と云うだけだった。孝徳天皇の使者にも同様であり、孝徳は遂に兵を差し向けた。
 石川麻呂は難波からヤマトへ逃れた。その頃、石川麻呂の長男・興志は父を迎え、共に造営中の山田寺(写真:金堂跡)に入り、迎え撃つことを提案するも自殺した。これも、中大兄がだまされたことになっているが、中大兄が仕組んだ事件の可能性が高い。(書記は中大兄は無関係であることを強調している)。

 中大兄が絡んだ事件をもう一件。650年宍戸国(長門国)で白い雉が見つかり、朝廷に献上された。僧侶がこれは祥瑞だというので、年号は白雉と改元された。652年、難波長柄豊碕宮が完成する。が、653年事件が起こる。
 中大兄は突然新宮を捨て、飛鳥に戻ると言い出す。孝徳はこれを許さなかったが、中大兄は母・宝皇女(皇極)と妹・間人皇女(孝徳の大后)を奉じ、兄弟を引き連れ、飛鳥河辺行宮に還ってしまう。臣下の大半もそれに従い、最愛の妻にまで見放され、難波の新宮に取り残された孝徳は、失意のうちに翌年10月に没する
 冷酷非情の中大兄像は「書記」には描かれていなかった。書記は陰謀や策謀とは無縁の若き軍事担当の英雄しか描いていない。

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2012年6月18日 (月)

雨に濡れて夏の花

 野田総理は、国会会期の延長を、輿石幹事長に指示して、G20(メキシコで開催)に飛び立った。大飯原発問題も後を引きそうだが、増税と社会保障一体改革は、必要な施策ながら、論議不十分と云う多くの国民の欲求不満も看過できないだろう。
 梅雨空の下、もう夏の花が咲き始めた。
Photo  ブーゲンビレア。これ、我が家の鉢植。4月に屋内から庭に出したときは葉もついていたが、葉が順次枯れて落ちてしまった。5月下旬から蕾が付き始め、今この状態。葉のない花だけの鉢植えも珍しいので紹介。小さな白いのが本当の花。
Photo_2  アガパンサス。最近民家の庭にも増えてきて、今咲き始めた夏の花。雨にあっても萎れない元気な花だ。
和名紫君子蘭というが、君子蘭とは別種。
Photo_4  下夾竹桃
夏の花の代表。今頃から咲始め10月頃まで咲き続ける。見るからに暑苦しくなる花だが、このように蕾の間はなかなか可憐だ。毒性強く、一時公園や学校での植栽は禁止されたが、現在は解除されている由。

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2012年6月16日 (土)

最古の「戸籍」木簡出土

 掲題のタイトルで、13日付け毎日新聞(西部本社版)は一面トップで大宰府市・国分松本遺跡から、貴重な木簡が出土したと報じた。
Photo_2   古代、大化改新後、日本は中国律令制に倣い、689年には飛鳥浄御原令(アスカキヨミガハラレイ)が施行された。しかし、この令の通りには諸制度が確立せず、不備な点が多く、その後701年に中国律令制に倣い、新しく大宝律令が発布されようやく律令国家の道を歩み始めたとされてきた。それで、税制施行のためには当然、戸籍を必要とし、又口分田支給や徴兵のためにも欠かせない物であった。
 そこで、戸単位で一人一人を登録・集計した台帳が作成された。この戸籍台帳は670年に最初の全国的戸籍台帳である庚午年籍(コウゴウネンジャク)が作成され、続いて690年庚寅(コウイン)年籍が知られている。(写真は毎日新聞より)

 今回出土の木簡はこれら年籍の基になる戸籍計帳作成のために行われた戸籍調査の記録であり、従来の戸籍は大宝律令で初めて作られたとする通説を覆す飛鳥浄御原令時代にの資料であり、最古の資料が出土したのである。
 又この木簡では、図にある「嶋評」の嶋は福岡・旧志摩町付近であり、(コオリ)は、大宝律令では郡と表記される行政区画で、685~701年の作成と推定された。
 尚、「竺志(筑紫)前国嶋評」の表記は正倉院蔵の文書とも一致する。

 九州大教授・坂上康俊氏「飛鳥浄御原令時代も、後の大宝律令並みに充実しており、兵士名もあり、戸籍に基づき兵士調達をしたことが確認できる。6年ごとに改正された696年の庚午年籍に基づき、697年の調査時の可能性が高い」と話している。今後の調査によりさらに詳しく判明して歴史の一部が塗り替えられるのが楽しみである。

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2012年6月15日 (金)

倭国の興亡124: 巨大王宮の必要性(前期難波宮)

 大化改新を考古学的に裏付けるのが難波宮跡の遺跡である。「書記」には乙巳の変が起こった645年に難波長柄豊碕に遷都したとある。しかし、書記記述をまとめると、改新政権の難波の最初の王都は、外交施設があった小郡で、それを宮へ改作を進め647年小郡宮が完成した。その後間もなく難波長柄豊碕宮の造営が始まり、651年中にはほぼ完成した。同年大晦日に孝徳天皇が遷宮し、翌9月に竣工した。同年大晦日に孝徳天皇が遷宮し、翌年翌年9月に竣工した。その威容を書記は「殫(コトゴトク)に論(イウ)べからず」と形容した。
 難波は半島や中国との交流の窓口で、そこへの王宮の移動は、激動期の半島情勢への早急な対応可能な体制の構築が、新政権には緊急の課題だったことを示している。
124  難波宮遺跡は前・後期2時期の遺跡が重なっている。前期難波宮の全容は不明ながらも、中枢部の朝堂院は東西233.4m×南北263.2mの規模で内部に14堂以上の朝堂がならび、内裏を画する内裏南門は柱間7×2間で、平城宮の正門・朱雀門を凌ぎ、古代官都の門では最大級であった。
 但し前期難波宮は板葺で瓦がなく、土器などの伴出遺物も殆どないので、造営年代が確定されていない。但し、。1999年に「戊申年」の木簡が出土し、遅くとも648年には工事が始まったと見られる。

 この後、中大兄皇子の飛鳥遷都、斉明天皇の後飛鳥岡本宮、更に667年の近江大津宮、壬申後の飛鳥浄御原宮が造営されるが、これに匹敵する朝堂院694年の藤原宮までない前期難波宮は、改新時の王権の政治機構や儀礼形態に似つかわしくない、実用を越えた規模であると云われる。
 朝堂の数が14と多いが、夫々の殿舎の規模は小さく、むしろ中央の広場である
「朝庭」の広さが際立つという。大王の権威を高めるために、一君万王思想の根拠を与える「天つ神の事依させ=神から地上の支配の付託をうける)」の観念を臣下に喧伝し、浸透させる場が「朝庭」だった。臣下を集めた朝庭で、「事依させ」を受けた大王だけが天下を統治できる正統性を持っていることを宜り聞かせて、大王の隔絶した権威を繰り返し感得させた
 即ち、この
朝堂院は、大王の隔絶した権威を視覚的に表現した空間と云われるのである。

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2012年6月14日 (木)

雨が降らない梅雨

 明日は降雨予報が出ているが、今日は只今室内で30℃。窓を開け放し、真夏並みの軽装でパソコンに向かっている。体調が気候変化について行けないでいるが、何故かお酒は順調に胃に入ってゆく。酒以外の暑さ対策を考えねばと思いながら・・・。今日も今、咲いている花を紹介。
Photo  ザクロ(柘榴)。アフリカ原産。日本には中国経由で923年に渡来した由。ザクロは果実の観賞或いは食用が主と思っていたら、八重の花があった。勿論、観賞用に植樹されたもの。古典園芸植物の一つだそうで、私の認識不足だった。
Photo_2  コバノランタナ(小葉のランタナ)。ランタナ(七変化)と全く同じ形の花だが、径が1cm以下の小さな花。蔓性で匍匐性があり、地面に広がって咲いていたもの。ランタナと別種である。葉は秋には紅葉する。ハンギングに使われるようだが、これは野生化したもの。
Photo_4  ムラサキゴテン(紫御殿):露草の一種。葉も花も紫色。観葉植物として大抵の庭に1乃至2株位植わっているが、左程美しい花でもない故かたくさんは植わってない。挿し木で簡単に増やせ、又水を入れたコップに入れると発根する。

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2012年6月12日 (火)

倭国の興亡123: 改新の内実(Ⅱ)部の廃止と評の設置

 新政権の改革の矛先は中央にも向けられた。中大兄皇子によって646年に出された「皇太子奏請文」により実施された「部」の廃止策である。一君万民思想を掲げ、一元的支配体制を目指しながら、実際はかなりの既得権益が留保されたのは、実態の急激な変化より、意識改革に重点を置いたと見られる。
 648年と翌年の2度に亘る「品部廃止の証」で「品部」の全面廃止が宣言された。これは部民制の全面廃止の方針を表明したものである。
 王族や臣・連のウジが領有している品部を廃止して「国家の民」とし、臣・連・伴造のツカサ(官)も廃止された。それだけでは諸氏の経済的基盤が消滅するので、代替措置として諸氏の人々に冠位を授けて、新しい官職につけ、調庸をとして支給する方針が提示された。

 しかし、新しい政治機構に対応した給与制度は極めて不徹底に終わっている。八省が設置されたのは大宝律令の時である。なにがしかの官制整備は行われたと思われるが、647年649年冠位制の改定が行われ、664年給与制度が発布され、「甲子の宣」で諸氏に民部・家部が支給された時も、依然としてウジ単位であり、食封制度に切り替わるのが天武朝に入ってからと見られるので、調庸を禄として支給する制度は全く実現しなかったのは確実である。
 こうして中央の有力なウジの所有する部は全廃の形をとりながら、ウジの既得権は大半が温存されたのである。唯すべての民は「公民」であると意識され始めたのは大きな成果だった。
123 は公務旅行者が駅馬利用の際使用した駅鈴
 ウジの官僚化が不徹底に終わったのに対し、国造支配の解体はかなりの実効を上げた。それは「評(コオリ)」の設置だった。評は律令制下、国の下に置かれた郡(コオリ)の前身の地方組織である。701年大宝律令で郡となっている。
 孝徳期に一斉に建置されたか、天武朝まで順次移行したか論が分かれているが、649年ごろ諸国で国造のクニが一斉に評に編成替えされたらしい。
 評の評督、助督には国造が任命されている例が多いが、物部。中臣など国造以外の任命の例も少なくないという。安定した地方支配を行うためには、どうしても伝統的な権威を持つ有力首長のの力が必要だったのである。

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2012年6月10日 (日)

空梅雨が続き、暑い日

 福岡は空梅雨の年がよくある。過去には大きな河川がない故、すぐに断水となっていた。しかし、近年筑後川導水がなされ、市民生活は問題解消したが、田植えの農家や、筑後川河口の有明海の海苔生産には響く。自然条件は無理には変えてはいけない証か。今日もこの時期に元気に咲いている花を紹介。
4  アメリカデイゴ(亜米利加梯梧)。和名はカイコウズ(海紅豆)。鹿児島の県木。南関東以南の木。学名 Erythrina crista-galli は赤い鶏冠(トサカ)の意。和名の海紅豆海外から来た赤い豆の意。沖縄の県木も梯梧だが、似ているがこれとは別種の由。
Photo  スイカズラ(吸い葛)。別名ニンドウ(忍冬)。常緑で冬も葉が落ちないところからの名前。花弁が上下に別れ、上はさらに4裂となり、色が白から徐々に黄色に変わる。東アジヤ一帯に分布。抗菌作用、解熱作用、利尿作用があり、漢方薬に使われる。
Photo_2  ハナショウブ(花菖蒲)。古典園芸種植物で、平安時代からあり、品種も5,000種に及ぶという。珍しくないが、当地では香椎宮の菖蒲池に毎年咲き、今が菖蒲祭りの時期なので、撮ってきた。アヤメ、カキツバタとの区別が付かないが6月咲は菖蒲と思っている。

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2012年6月 9日 (土)

梅雨入りしたが、雨降らず

 大飯原発は、大いに注目されたところだが、野田さんは再稼働に舵を切った。原則廃止で当面再稼働かと思ったら、原則再稼働で、危険個所や老朽施設のみ廃止のような言い方である。少しずつ野田さんの政治姿勢が見え始めたか。 
福岡も昨日梅雨入りとなったが、曇り乃至薄日さす程度。雨がほとんど降らず。、田植えの時期でもあり、一雨欲しい所だ。梅雨時期に元気に咲いている花を紹介。
Photo  スカシユリ(透かし百合)。JRの駅ロータリーの花壇の百合。白いのは普通の白百合。花弁と花弁の間がすいているからの名前。日本海側は5-6月が開花期でイワユリと呼ばれ、太平洋側は7-8月が開花期でイワトユリと云う由。それらの栽培種がスカシユリだ。
Photo_2  トケイソウ(時計草)。トケイソウの内のムーレアナと云う種がこれ。雌蕊を時計の針に見立ての名前。子房柱が十字架、副冠が茨の冠、5枚の花弁と蕚合わせて10人の使徒に見て、キリスト受難の花passion flowerと呼ばれる。パッションフルーツ(奄美沖縄)は果物時計草の実
Photo_4  下メドウセージ本名はサルビア・ガラニチカでサルビアと同じシソ科植物。本来のメドウセージはこれより小さい花で、間違って呼ばれているのは日本だけという。「蛇が口を開いたような形の花」と形容されるが、まさにその通りであまり好きでない。

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2012年6月 8日 (金)

倭国の興亡120: 改新の内実(Ⅰ)使者派遣とクニ解体

 新政権の急務は、様々な弊害を生み出した「部民制」(諸民族によるカキ(部曲)の分割領有体制)を解体し、代ってすべての民を「公民」(オオタミタカラ)として支配する一元的な支配体制を創出し、対外的には支配層の権力を一元的に集中し、風雲急な半島情勢に即応できる体制を作ることであった。要するに支配層内部の君臣関係と、王権による全国支配の体制とを共に一元化した支配体制の構築である。これが「公地公民制」という支配体制の形成を目指した要因である。
 但し、これを短時日のうちに実現することは、改新政権の置かれた歴史的状況及びその力量からも、到底不可能だった。だからまず一君万民思想を政治理念とし掲げ、ウジごとのタテ割り支配が悪であることを諸氏族に訴えながら、支配体制の一元化を目指さざるを得なかった。(下図は孝徳天皇即位の図
122_2  改新政権のすべての政策の基礎となったのが、諸国に使者(ミコトモチ)即ち宰を派遣して国造の支配領内で実施する様々な施策である。これは特定場所に駐在せずに、管轄地域内を巡回しながら任務を遂行した。使者の主な任務
.任地に於いて「戸籍」を作り、「田畝(デンボ)」を調査すること。
(コオリ)の官人の任官希望者の系譜を調査し、中央に報告すること。
.国造などの在地首長の保有する武器を集め、武器庫を造り王権管理下に置くこと。
1の戸籍は律令的な戸籍ではなく「民の元数を録す」とあるように領域内の戸口の総数を把握することだったようだ。「田畝」の調査とは、これも領内の田地の総面積の掌握であったと思われる。前者は仕丁の徴発や「男身の調」の賦課基準となりうるもので、後者は田祖賦課に必要である。何れも王権の一元支配の実現には絶対に把握せねばならぬ数字である。
2の評はクニを解体し、評という新しい行政組織を置くための施策である。部民制を根底で支えたのは国造や伴造などの在地首長の人格的な隷属関係に基づく支配体制だった。部とカキの一体性が様々な弊害を生み、行き詰まりとなりつつあったこの支配体制が、最大の政治課題であった。勿論国造の地位を相対的に弱め、王権の地方支配の基盤拡大の狙いがあった。
は国造領内の武器の収公であり、武器自体は地方に留め置き、それを王権の管理下に置くものである。これは国造の勢力削減に直結するのは明らかである。

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2012年6月 5日 (火)

梅雨間近、花々競い咲き

 野田さん、もうワンステップ突き進むべく、昨日内閣改造。新鮮なのは森本防衛大臣の誕生。しかし、野党は改造内閣を人材不足露呈と揶揄している。猿の尻嗤いと云う言葉を思い出した。梅雨近い感じの曇り空の下、艶やかな花々が咲き競っている。
Photo  クジャクサボテン(孔雀仙人掌)。原種はメキシコ~ブラジルに分布する熱帯植物だが、国内でも、霜に当てなければ、長年大輪の花を付けてくれる手間要らずの花である。唯1日花で、1日で萎んでしまうので、儚い感じがする花ではある。
Photo_4  シチヘンゲ七変化)。洋名はランタナ。同じ茎からいろんな色の花が出て、開花後も順次色が変わってくるところからの名前。又実も緑→青→黒と変化する。これも中南米原産だが、上とは逆に、長期に楽しめる花。
Photo_3  タチアオイ(立葵)。アオイはゼニアオイについで2度目。こんな真っ赤な真紅のアオイは見たことがなかったので、撮って来たから載せた次第。

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2012年6月 4日 (月)

倭国の興亡121: 大王の譲位と「改新の詔」

 蝦夷自刃の翌日、皇極中大兄皇子に譲位の意志を伝えた。中大兄は即答を避け、鎌足に相談したところ、兄・古人大兄が健在ゆえ、差し置いての即位はよくない。ここは叔父の軽皇子を立てれば、人望も得られると答えた。蘇我打倒の直後の即位は権力欲とみられ、古人大兄を立ててはクーデターの意味がない。叔父のもとで実権を握れば、体よく兄をはずし、権力を私物化した蘇我打倒の大義名分も立つとの、鎌足の策士らしい妙案なのだ。
 軽皇子も固辞し、古人大兄を推したが、古人も辞退し、飛鳥寺にて剃髪し僧形となって、吉野に去った。これで、叔父の軽皇子が即位し孝徳天皇となった。王位継承での譲位は初めてであったが、群臣による大王推戴が、譲位へと変わり、大王の主体性が強まって、「天皇」更に近づいたのである。

 こうして新体制が固まり、中大兄皇子を「皇太子」とし、左大臣は長老・阿部内麻呂、右大臣は蘇我石川麻呂が任じ、中臣鎌足を内大臣に任じて、大王の側近として、渡来学者の旻法師と高向玄理を政権のブレーンとして国博士に任じた。
 新政権は「大化」の元号を立て、矢継ぎ早に新しい施策を実施した。
121_2  翌646年の元旦に、4ヶ条の改新の詔(ミコトノリ)を発布した。
第1条:カキとヤケの廃止。天皇の立てた子代の民・処々の屯倉と、臣・連・伴造・国造・村首の所有する部曲(カキ)の民・処々田荘(タドコロ)を廃止する。代りに大夫以上には食封(ヘヒト)を、官人・百姓には布帛(フハク)を支給する。
第2条:京と地方支配の制度:京師の制を定め、畿内国司、郡司・防人・駅馬・伝馬などを置く。
第3条:戸籍・計帳・班田収授の法制定:50戸一里・田祖の制を定める。
第4条:旧来の賦役の廃止と田の調の実施:田の調・調の副物の制を定め、官馬・兵器・壮丁・采女の賦課法を定める。
 以上の詔に集約される一連の改新が行われたとして、「大化の改新」と称されるが、1960年代には「改新否定論が」提起されるに至る。そこで、この信憑性については次回に掲載する。 

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2012年6月 2日 (土)

群れて咲いてる梅雨の花

 大飯原発をめぐり、なんとなく原発容認ムードとなって来た感がある。電力不足のもたらす経済活動の低下を恐れての事であろうが、是は是、非は非とハッキリ決めつけられないのが日本人的気質。このなんとなく群れる日本人気質に因む訳でもないが、今日は群れて咲いてる花を紹介。
Photo  クチナシ(梔子)。花には強い芳香があり、学名jasminoidesは「ジャスミンのような」の意とか。秋に赤黄色の果実をつける。熟しても割れないところから「口無し」とも。この実は黄疸などの漢方薬に使われ、黄色の着色料(タクワンなど)、発酵させると青色の染料(繊維類)にもなる。
Photo_2  ドクダミ(蕺草)。この花、白く
花弁のように見えるのは総苞であり、中心の棒状の淡黄色のが小花の集合したもので、花弁、ガクはなく、雌しべ、雄しべからのみ出来ている。ご存じ十薬で、幅広い薬効がある。
Photo_4  ガクアジサイ(顎紫陽花)。ガクアジサイは2度目だが、周辺の花がこの形は珍しいので、再掲した。球状の
普通の紫陽花はこの日本原産のガクアジサイを品種改良したものだそうだ。

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2012年6月 1日 (金)

倭国の興亡120: [異説] 「乙巳の変」の真相

 〈乙巳の変〉は皇極女帝と弟の孝徳天皇による共同謀議であったとする説(遠山美都男(学習院大)を紹介する。
 先ず最初に、変後に皇極大王から孝徳天皇(実弟)へ史上初の譲位が実現している。書記では3人の王子の譲り合いの末、孝徳に落ち着いたとしている。そして、古人大兄(中大兄(天智天皇)の異母兄)の飛鳥寺での出家によって締めくくられている。だが、飛鳥寺は蝦夷の甘樫丘から近い場所だ。もし、古人大兄が強制的に出家の儀式を行わせられたとするなら、甘樫丘には、未だクーデター勢力に反撃できる人たちが健在だったことになる。
 実際は古人の出家は蝦夷誅殺より以前の事であった筈だ。それ故にこそ蝦夷や蘇我本家は反撃に必要な「錦の御旗」である古人大兄からは既に見捨てられていたので、何の反撃も出来ず、「無条件降伏」しかなかったのであろう。
120  当然のことながら、古人大兄の出家が蝦夷誅殺以前なら、皇極の突然の譲位に伴う3王子の互譲の話は成り立たない。即ち3王子互譲は事実と異なる捏造された話だという。更に、皇極の突然の譲位表明そのものが事実でないと思われる。(図は皇極の飛鳥板蓋宮(イタブキノミヤ)
 13日蝦夷誅殺、翌14日皇極譲位表明、同日孝徳が即位と運んだのは当初から王位譲渡の相手は決まっていたとみるべきである。これが所定の行為なら、クーデターの目的の第一は蘇我本家が押す古人大兄の即位阻止にあった。そして、クーデターを断行したのは王位を譲り受けた孝徳その人だった。故に中大兄皇子は鎌足と共に政変の実行部隊であったに過ぎない。この時の皇子ははまだ20歳であった。

 孝徳に譲位した皇極は「皇祖母尊(オオミヤノミコト)」の尊称を奉られ。654年孝徳の没後直ちに王位に復帰している(斉明天皇である)。皇極の譲位は同母弟に王権王位を分与し、将来王位に復帰することを前提に、この時期特有の政治課題に取り組むために行われた。それは、642年即位以来、政治課題としていた飛鳥板蓋宮を中心とした都市空間の構築である。後に「倭京(ヤマトノミヤコ)」と呼ばれた都市建設である。
 孝徳は「大化改新」と呼ばれる大変革を実行した。それは皇極が目指す都市建設に不可欠の物資と労力を民衆から大量且つ円滑に徴収するシステムの構築であった。乙巳の変はこの姉弟による「共同謀議」だったのである

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