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2012年5月 7日 (月)

倭国の興亡114: 推古没後の王位継承問題

  622年厩戸皇子(聖徳太子)が没し、626年には蘇我馬子が、更に翌々年には推古女帝が亡くなって、推古王権の中枢人物が相次いで他界した。上宮王家(聖徳太子家)は山背大兄王へ、蘇我氏は蝦夷へと世代交代した。
 王位継承の有力候補は田村皇子山背大兄王(厩戸王の子)であった。女帝は二人を病床に呼び田村皇子には「天下を治めるのは大任だ。たやすく口にすべきでない」と言い、山背大兄王には「自分の意見を言わずに、群臣の意見に従うように」と諭した。当時はまだ群臣が新大王を推戴するのが原則であり、前大王が後継に関し発言したのは異例であった。もっとも推古の遺言は二人に自重を求め、後継について明言を避けている。
114  山背大兄王の母は馬子の娘・刀自古郎女で血縁は蘇我氏に近いが、なぜか蝦夷とは犬猿の仲であった。一方、田村皇子は敏達天皇以来の非蘇我系の系譜をひくが、馬子の娘・法提郎媛(ホホテイノイラツメ)を娶り、古人大兄皇子が誕生していた(系譜参照)ので、蘇我氏に抱き込まれていた。
 蝦夷の腹は決まっていたが、慣行を無視できず、群臣に後嗣をはかったが、意見は眞二つにわかれ、王位継承問題はますます混迷を深めた。
 問題の決着を決意した蝦夷は、大兄王支持の急先鋒である境部摩理勢の説得を試みたが、反発した摩理勢は蘇我一族の墓所を荒し、引き籠った。蝦夷は兵を起こして攻め、摩理勢を自害に追い込んだ。

 こうして田村皇子が即位し舒明天皇となる。そして王位継承に前大王の遺言が新しい要素として加えられた。即ち、前大王の意志が王位決定に重要であると群臣が考え始めたのである。こうして、王位の譲位実現近づきつつあった

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