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2012年5月24日 (木)

倭国の興亡118: 大化改新の外的要因・中国と半島

 高句麗遠征失敗によって隋は滅亡し、代って618年唐が成立。翌年には高句麗が朝貢し、621年には新羅・百済を加え三国が朝貢して、624年には揃って唐の冊封を受けた。そして半島三国の抗争は次第に激しさを増してくる。
118  この抗争が三国の内政に跳ね返り、642年頃から各国共に権力集中が進む
 この年、百済の義慈王は突如新羅を攻め大勝利を得た。その勢いで高句麗と手を結、王弟や政府要人40人を追放。国王の独裁体制を敷き、権力集中した。
 高句麗でもその年、権臣泉蓋蘇文がクーデターを起こし、栄留王と百余人の重臣を殺害して、王弟の宝藏王を擁立。実権を握った泉蓋蘇文が国政を支配した。。(図は七世紀の東アジヤ
 新羅では善徳女王のもとで、王族の金春秋と重臣金庾信体制が政権を支えていたが、642年に百済に惨敗し、高句麗の攻撃を受け苦境に立った。翌年唐に救援を求め、唐の一族を王にすれば、支援するとの難題を突き付けられる。647年善徳女王は急死し、真徳女王が後を継いで金春秋・金庾信体制が確立する 新羅の要請を受けた唐の太宗が高句麗を説諭したが応ぜず、644年末唐は十万の大軍を派遣し高句麗を攻撃、翌年には太宗自ら大軍を率いて遼河を渡った。しかし、高句麗の守りが堅く、646年から3年間に亘り出兵したが、太宗が亡くなり、高句麗征討は失敗に終わった。半島三国の抗争に唐が介入し、激しい戦いが増幅されて行く。

 倭国改新クーデターはまさにこのような時期にあたっており、蘇我蝦夷・入鹿親子の独裁体制が敷かれ、権力の私物化が進む中で、半島情勢に迅速な対応が取れないこの焦燥感が中大兄皇子ら反蘇我派にクーデター決行を決意させ、更に支配層権力の一元化を核とした改新政権の諸政策の方向性を規定する要因になった。即ち、中国・半島情勢が大化の改新の大きな外的要因ともなったのである。 

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