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2012年5月 3日 (木)

倭国の興亡113: 「天皇」の萌芽と朝庭の形成

 第1回遣隋使(600年)の時、隋書によれば、「倭王」の名を「姓は阿毎(アメ)字は多利思比孤(タリシヒコ)、阿輩雞弥(アメキミ)」と号したとある。これは誰なのか論議を呼んだが、現在は以下のように解されている。
 まずアメタラシヒコを中国は勝手に姓と字に分解して受け取っているが、「天足らし彦」即ち足る=満るであり、「天の満ち足りた男子」の意で
大王の尊称である。それを中国流に姓名とした。又アメキミ=天君で、天の子即ち天つ神の子孫であるという観念が成立していたらしい。
 推古朝では既に大王を天つ神の子孫とする
「天孫思想」が芽生えていたが、その背景の「王権神話」は、まだ「記紀神話」が体系化されてない時期で、高句麗の王権思想を借用したとの説がある。
 推古朝の王権思想が
「天」と密接にかかわっていることは、6、7世紀の大王を見ても、欽明アメクニオシハラキヒロニワ)、皇極アメトヨタカライカシヒタラシヒメ)、幸徳アメノヨロズトヨヒ)、天智アメミコトヒラカスワケ)、天武アメノヌナハラオキノマヒト)と多くの大王がアメ(天)から始まっていることから判る。
 113_2 倭国の天は中国の徳治の「天命」とは違い、
事依させ即ち、「天に加護され、委ねられた」感じの王権思想である
 
603年には小墾田宮が新たに造営された。608年の隋使・裴世清や605年の新羅・任那使の来朝の際、小墾田宮の「朝庭」で行われた外交儀礼の描写が「書記」にある。小墾田宮は後の朝堂院の原形になるような平面構造をしていた。宮の正門である南門を入ると朝庭があり、その左右に朝堂が並び大臣ほか諸臣の座がある。その北に大門が開かれており奥には大王が出御する大殿があった。新しい構造の宮で、王権の中枢の政務・儀礼空間「朝庭」が誕生した。それが604年朝礼(朝廷の礼法)の改定であり、新しい政務・儀礼に相応しい規範意識の形成を目的とした。所謂「朝廷」は政府であり、国家・天皇の意味でも使われるが、この時期の「朝庭」朝堂院に相当する空間を意味した。「朝庭」の持つ特別な空間的性格は「治天下大王」、更には天皇の統治権の正統化に重要な役割を果たしたのである。は臣下の天子に朝見するから来ており、天子は南に向かって臣下に対面した。宮の正殿(大極殿)は朝庭に南面する配置になっている。だから、朝庭は大極殿に北面する場である。
 

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