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2012年5月14日 (月)

倭国の興亡116: [異説] 舒明天皇の出自は百済王族か

 舒明天皇は『書記』によれば、敏達天皇の孫・押坂彦人大兄皇子の皇子とされている。ということは駕洛国(任那)の最後の王であった仇衡(クヒョン)王の成り代りである欽明天皇の曾孫である筈だ。ところが、舒明は百済川(大和)の川辺に百済宮や百済大寺を建てたり、百済武王の次女・宝皇女を妃に迎えたりした百済系の天皇と云われ、書記記述とは一致しない。即ち書記記述が疑わしい
116_1  舒明の諡号は「オキナガタラシヒヒロヌカノスメラミコト」であり、タラは百済系の加羅族の国であった「多羅国」出身の蓋然性も大きい。だが百済系の王族が倭国に渡ってにわかに倭国王にはなりえない。
 そこで、倭国に縁のある百済王族を探すと推古紀に597年百済威徳王の太子である「阿佐」が渡来している。阿佐はもと王世子であったが渡日していたので王位を継げず叔父である恵王に王位を奪われた。

 阿佐が舒明に成り代るまでに31年を要している。その間彼は田村皇子の名前で、百済系である大臣蘇我馬子と協力して、当時の皇太子であった駕洛国系の聖徳太子とその母を共に殺害して、駕洛国(任那)系の推古天皇(欽明の娘)が628年に亡くなるや聖徳の子である山背大兄王と王位を争い天皇に成り上がったと推定できる。そうであれば、60歳前後で天皇になり、13年間在位して70歳余で亡くなったことになり、諡号の初めの「息長(オキナガ)」に釣り合う天皇といえる。

 以上総合して、舒明天皇は百済の威徳王の王世子であった「阿佐王子」の成り代り説である。(以上:韓国、言語学者・姜吉云「倭の正体」より)
 尚、この当時、倭国の大王の王族は半島特に百済王族と非常に近しい関係にあり、血縁的にはかなり強い繋がりがあったと思われる。だからこそ、多くの技術者や学者が渡来し、又倭国文化を押し上げた多数の工人たちの渡来があって、革命的に倭国文化を進展せしめたものと考えられる。 

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