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2012年5月19日 (土)

倭国の興亡117: 上宮家の滅亡と蘇我氏の専横

 舒明天皇が641年に没し、翌642年舒明の大后(妃)の宝皇女が即位し女帝・皇極天皇となる。皇極即位は山背大兄王(太子の子)の即位を阻止し、古人大兄(中大兄(天智天皇)の異母兄弟)の即位の芽を摘まぬためであった。
 慣例により蘇我蝦夷を大臣に再任したが、実権は既に蝦夷の子・入鹿が握っており、この頃からその專横ぶりが目立った。蘇我氏の祖廟を葛城の高宮に建て、中国では天子だけが行える「八佾(ヤツラ)の舞」をしたり、挙国の民を徴発して蝦夷・入鹿親子の墓を造り、大陵(ミササギ)・小陵と呼んだ。など、大王並みの僭越な振る舞いをしたと「書記」にある。誇張があるにせよ蘇我氏は横暴になり、次第に孤立化していったのは事実だ。こんなところから、「蘇我氏は大王だった」説が生まれている。
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643年蝦夷が病気になり、朝廷に出仕しなくなると、勝手に入鹿に大臣の紫冠を授けて大臣になぞらえるなど、入鹿の専横ぶりは増長した。
 入鹿は上宮王家の王たちを排除し、古人大兄を大王にと咲く策謀し、巨勢徳太臣等に斑鳩宮の
山背大兄王を襲わせた。大兄王は難を逃れ生駒山に逃れたが、斑鳩宮は炎上した。争いを避け、斑鳩寺に入った大兄王は入鹿軍に包囲され、遂に子弟・妃妾らと共に自ら命を絶った
 これを聞いた蝦夷はとんでもない愚か者と入鹿を罵ったが、不安は的中し、
入鹿はにわかに人望を失った。(蘇我入鹿暗殺の場となった蘇我氏邸宅跡である)。

 644年蝦夷・入鹿親子は飛鳥の甘樫丘に建てた蝦夷の家を「上の宮門(ミカド)」、入鹿の家を「谷の宮門」といい、子供を王子(ミコ)と云ったという。自分たちを大王になぞらえた専横ぶりだった。
 一方では、周囲に城柵を巡らし、要塞化して、武器庫や防火用水を設け、武人に警護をさせる物々しさだった。
人望が消え敵が多くなって、クーデターは直ぐそこであった。 

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