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2012年5月

2012年5月31日 (木)

梅雨入り近い花々

 野田-小沢会談はほぼ予想通りの展開で、この結果、野田さんに軍配が上がったのかどうか。単なる事態の引き伸ばしに過ぎなかったら、小沢さんに利ありとする見方もある。政治の世界は三寸先は闇と云われるので、庶民には殆ど無関係の動きだったか。今日は前回の花の続編。
Photo  ビヨウヤナギ(未央柳)。前回(5/26)の当ブログ紹介のキンシバイ(金糸梅)と木や葉は殆ど同じで、同じ仲間だが、花弁が離れているところが違う。別名キンカイドウ(金海棠)。葉が柳に似ているところからの名前。中国では金糸桃というそうだ。
Photo_2  カシワバアジサイ(柏葉紫陽花)。前回紹介の紫陽花の一種。北米原産。葉が柏の葉に似ているところからの名だが紫陽花の仲間である。最近、園芸種も多くなって、庭植えしている家も多い。
Photo_3  サンゴジュ(珊瑚樹)。花後赤い実をつけるので、実を「サンゴ」に見立てての名づけである。生垣としてよく使用されるが、庭木として1本だけ植えている家も多い。

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2012年5月30日 (水)

梅雨も近づき花も移り変わる

 なんとなく曇りがちの暑い日が続き、日本の政界の様にすっきりしない日が続いている。目に付く花も梅雨・夏に向けどんどん変わってゆき、変化の速いのに驚いている。今日は梅雨らしい花を載せました。
Photo  シモツケ(下野)。日本原産。下野国(栃木)で最初に発見された。平安時代には一般に広がっていたという純国産種の花である。学名もSpiraea japonicaとなっている。色は白もあり、コデマリやユキヤナギと同属である。
Photo_2  アジサイ(紫陽花)。あじさいは藍色が集まったもの・「あづさい(集真藍)」が訛ったものと云われるが、最近はこの様に観賞用に品種改良され、藍と関係ないものも多い。
Photo_4  ヤマアジサイ(山紫陽花)。周囲の花弁のように見えるのは装飾花と云われ、ガク、花弁、蕊からできているが、種子を作る性質は失われている。この花は八重など色々形・色が豊富で、やや大きいのはガクアジサイとも称される。

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2012年5月28日 (月)

倭国の興亡119: 乙巳の変

 蘇我入鹿の専横振りに憤慨していた中臣鎌足が、王族に君主と仰ぐに相応しい人物を求め、目につけたのが中大兄皇子である。中大兄は、舒明・皇極の間に生まれた皇子で、次期大王の候補として血筋的には申し分なかった。が、蘇我氏が後ろ盾になっている異母兄・古人大兄皇子がおり、このままでは王位は巡ってこない。
119_2   鎌足は蹴鞠を通じて中大兄に近付き、二人は意気投合して、他人に怪しまれぬように南淵請安のもとに儒教を学びにゆく道すがら、蘇我氏打倒の秘策を練った。鎌足は蘇我氏傍系の蘇我倉山田石川麻呂を仲間に引き込むため、その長女を中大兄の妃に迎えようと提案し、喜んで同意したので婚約を決めた。ところが長女が蘇我日向に連れ去られたので落胆・途方に暮れたが、次女の越智娘(オチノイラツメ)が「心配しないで、私が代わりに行きます」といった。(図は入鹿斬殺の場
 こうしてクーデターの主要メンバーを決め、645年6月中大兄皇子は石川麻呂を呼び、「三韓進調の日」(韓三国が倭王に貢物を献上する)の儀式にかこつけ、クーデターを決行、入鹿を斬殺する計画を伝え、石川麻呂に「三韓」の国書を大王の前で宣読する役を依頼した。
 当日入鹿も出席して儀式が始まったが、切り込み役の佐伯連子麻呂が予定通り来ず、石川麻呂は冷や汗が出て、声が震えた。入鹿に咎められたが、大王の前で緊張したのでと取り繕った。
 子麻呂たちが気後れしたのを見て、中大兄が声を上げ切り込むと、子麻呂らもそれに続いた。先ず中大兄が入鹿に斬りかかった。驚いている入鹿に子麻呂も足に斬りつけ、入鹿は逃げて命乞いをした。何も知らない皇極天皇は驚き何事かと中大兄に聞いたので、「入鹿は大王家を滅ぼし、王位を傾けようとしている」と訴えた。皇極はそれを聞いて、殿中へ入った。我が子のクーデターを黙認したのである。子麻呂らがとどめを刺した。この事件を「乙巳の変」という。

 中大兄は、王族・官人たちを率いて飛鳥寺に入り陣をしき、蝦夷方の反撃に備えた。蘇我氏の私兵的存在であった東漢氏は軍陣を設けたが、高向国押の説得で残念した。進退窮まり蝦夷は自邸で自刃した。

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2012年5月26日 (土)

夏の花が咲きだした

 原子力政策大綱を決めた8年前から、内閣府原子力委員会は協議内容を一般に公開せず秘密裏に行われていたという隠蔽体質が続いていたと新聞は報じている。やはり公開を憚るような危険因子を包み隠した原子力行政だったのでないか。
 こんな嫌な思いを振り払うべく、今日は夏の花が咲きだしたので紹介。
Jpg  キンシバイ(金糸梅)。中国原産で日本には江戸期に渡来。オシベが金の糸のようで、花弁が梅に似ているところからの名前。園芸種はヒドコートと云われる。これは公園で咲き始めたもので、もう暫くすると、一面に黄色の花が咲き乱れる。
Photo  ブラシノキ(刷子の木)。豪州原産で明治中期に渡来。又の名はキンポウジュ(錦宝樹)。赤い部分が花糸で穂状の花序なしており、夫々に実が付き、7-8年なったままで火事にあうとはじけて飛散し、次世代を残す仕組みの木である。神様も難しいことを考えるものだ。
Photo_2  キンケイギク(金鶏菊)。江戸末期に観賞用に導入されたが、繁殖力が強く、在来種に悪影響を及ぼすので、侵略的外来種として栽培・販売は禁止となっている。これは野生化したものが草叢にあったので撮ったものである。

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2012年5月25日 (金)

木々の花Ⅱ(白い花)

 花木でない木にも勿論花がついている。そんな花には興味もないであろうが、滅多にご覧にならないであろうから、ウオーキング中たまたま見かけたものを紹介しておく。
Photo  ナツミカン(夏蜜柑)。当地では、戸建ちの庭先には大抵夏柑が植えられている。江戸中期、萩に近い青海島(山口県)に漂着した橘の種を西本於長が育てたのが起源とか。萩藩は栽培を奨励したので、今でも萩には夏蜜柑沢山植わっている。
Photo_2  タマツゲ(玉柘植)。ツゲの木に花が咲くことを知らない人も多いのでは? 写真の花の径は2-3mm位。葉も5-8mm位だから、その気で探さぬと判らぬ。花後には赤い実をつけるというが、これもよく知らない。
Photo_3  レモン(檸檬)。当地でもレモン自体はあまり見かけないがこの木は毎年実がなる。毎年実がなる頃よく注意してみるが、花は知らなかった。尤もこの木には既に実もついている。手前の丸い緑がレモンである。花期が長く順次実が付いてゆくようである。

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2012年5月24日 (木)

倭国の興亡118: 大化改新の外的要因・中国と半島

 高句麗遠征失敗によって隋は滅亡し、代って618年唐が成立。翌年には高句麗が朝貢し、621年には新羅・百済を加え三国が朝貢して、624年には揃って唐の冊封を受けた。そして半島三国の抗争は次第に激しさを増してくる。
118  この抗争が三国の内政に跳ね返り、642年頃から各国共に権力集中が進む
 この年、百済の義慈王は突如新羅を攻め大勝利を得た。その勢いで高句麗と手を結、王弟や政府要人40人を追放。国王の独裁体制を敷き、権力集中した。
 高句麗でもその年、権臣泉蓋蘇文がクーデターを起こし、栄留王と百余人の重臣を殺害して、王弟の宝藏王を擁立。実権を握った泉蓋蘇文が国政を支配した。。(図は七世紀の東アジヤ
 新羅では善徳女王のもとで、王族の金春秋と重臣金庾信体制が政権を支えていたが、642年に百済に惨敗し、高句麗の攻撃を受け苦境に立った。翌年唐に救援を求め、唐の一族を王にすれば、支援するとの難題を突き付けられる。647年善徳女王は急死し、真徳女王が後を継いで金春秋・金庾信体制が確立する 新羅の要請を受けた唐の太宗が高句麗を説諭したが応ぜず、644年末唐は十万の大軍を派遣し高句麗を攻撃、翌年には太宗自ら大軍を率いて遼河を渡った。しかし、高句麗の守りが堅く、646年から3年間に亘り出兵したが、太宗が亡くなり、高句麗征討は失敗に終わった。半島三国の抗争に唐が介入し、激しい戦いが増幅されて行く。

 倭国改新クーデターはまさにこのような時期にあたっており、蘇我蝦夷・入鹿親子の独裁体制が敷かれ、権力の私物化が進む中で、半島情勢に迅速な対応が取れないこの焦燥感が中大兄皇子ら反蘇我派にクーデター決行を決意させ、更に支配層権力の一元化を核とした改新政権の諸政策の方向性を規定する要因になった。即ち、中国・半島情勢が大化の改新の大きな外的要因ともなったのである。 

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2012年5月22日 (火)

次々開花の可憐な草花

 昨日の金環日食で列島は湧いたが、今日はスカイツリーの開業。人間は古代より如何に高い所に上りつこうかと考えたが、未だにこの高所志向は止まってない。作家・曽野綾子さんは今春久しぶりに帰国し、これを見て「なんだあの見苦しいものは?」と驚いた由。
 今日はそれと反対に地面に隠れるように咲いている可憐な草花を紹介
Photo  ヒメヒオウギ(姫檜扇)。似た名前の「姫檜扇水仙」と云う草花もあるがこれは別物。南アフリカ原産の文目(アヤメ)科の花。白色もあるが、花弁の下3枚に赤班がある花径約2cm位の小花。こちらを向いて咲いているようでうれしい花だ。
Photo_2  サクラソウ(桜草)。野生のものは全国的に分布している。江戸時代に育種が進み、数百種の品種がある古典園芸植物。4月頃より咲始め、今も咲いている。1cm未満の小花が集合している。
Photo_3  オオトキワツユクサ(大常盤露草)。南米原産、昭和初期に園芸種として渡来。これも花径2cm弱の小花だが蕊が毛のように出ていて大きく感じる。今は完全に野生化している。繁殖力が旺盛で、庭植えすると庭に広がってしまう由。

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2012年5月20日 (日)

 風に揺れてる草花(紫の花)

 今、野田首相はG8でワシントンにいる。日本の総理が国際会議でリーダーシップを取ることが出来なくなって久しいのではないか。米国、中国、EU諸国夫々が個別の緊急課題を抱えている事も影響しているだろう。先ずは国内課題取り組みが緊急事だ!
 美しい花々が咲き乱れている。今日は草花の中で青紫色の花を取り上げる。
Photo  ゼニアオイ(銭葵)。欧州原産。江戸時代に渡来。似ている「マロウ」の変種。当初花が一文銭の大きさだったのが名の由来。葵は葉が太陽に向く「仰日」(あうひ)からの名。京都の葵祭りや、徳川の家紋は「双葉葵」でこれとは別種。
2  ムラサキツメクサ(紫詰草)。別名アカツメクサ。これも欧州原産。牧草として導入された。オランダからガラス容器輸入の際、乾燥したものが間に詰られてきた故の名前。便秘、咳、痰、強壮にも薬効があるとか。
3  マツバギク(松葉菊)。葉が松葉に似て、花が菊のようなところからの名前。蔓性で、横に伸びるのでグランドカバーに使われる。挿し木で増やせる。

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2012年5月19日 (土)

倭国の興亡117: 上宮家の滅亡と蘇我氏の専横

 舒明天皇が641年に没し、翌642年舒明の大后(妃)の宝皇女が即位し女帝・皇極天皇となる。皇極即位は山背大兄王(太子の子)の即位を阻止し、古人大兄(中大兄(天智天皇)の異母兄弟)の即位の芽を摘まぬためであった。
 慣例により蘇我蝦夷を大臣に再任したが、実権は既に蝦夷の子・入鹿が握っており、この頃からその專横ぶりが目立った。蘇我氏の祖廟を葛城の高宮に建て、中国では天子だけが行える「八佾(ヤツラ)の舞」をしたり、挙国の民を徴発して蝦夷・入鹿親子の墓を造り、大陵(ミササギ)・小陵と呼んだ。など、大王並みの僭越な振る舞いをしたと「書記」にある。誇張があるにせよ蘇我氏は横暴になり、次第に孤立化していったのは事実だ。こんなところから、「蘇我氏は大王だった」説が生まれている。
117  
643年蝦夷が病気になり、朝廷に出仕しなくなると、勝手に入鹿に大臣の紫冠を授けて大臣になぞらえるなど、入鹿の専横ぶりは増長した。
 入鹿は上宮王家の王たちを排除し、古人大兄を大王にと咲く策謀し、巨勢徳太臣等に斑鳩宮の
山背大兄王を襲わせた。大兄王は難を逃れ生駒山に逃れたが、斑鳩宮は炎上した。争いを避け、斑鳩寺に入った大兄王は入鹿軍に包囲され、遂に子弟・妃妾らと共に自ら命を絶った
 これを聞いた蝦夷はとんでもない愚か者と入鹿を罵ったが、不安は的中し、
入鹿はにわかに人望を失った。(蘇我入鹿暗殺の場となった蘇我氏邸宅跡である)。

 644年蝦夷・入鹿親子は飛鳥の甘樫丘に建てた蝦夷の家を「上の宮門(ミカド)」、入鹿の家を「谷の宮門」といい、子供を王子(ミコ)と云ったという。自分たちを大王になぞらえた専横ぶりだった。
 一方では、周囲に城柵を巡らし、要塞化して、武器庫や防火用水を設け、武人に警護をさせる物々しさだった。
人望が消え敵が多くなって、クーデターは直ぐそこであった。 

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2012年5月18日 (金)

木々の白い花

 折角の五月晴れに、鬱陶しいニュースばかり相次ぐが、今日の新聞に対馬の天然記念物「ツシマヤマネコ」の子猫4匹が見つかったの報。絶滅危惧種で、数が減っている時の朗報である。野山はすっかり若緑だが野草や樹木は花一杯である。今日は木の白い花を紹介
1  ハクチョウゲ(白丁花)。横から見た花が「丁」の字になっているところからの名。よい香りの小さな花(1cm位)だが、なんとも可憐な花だ。葉も小さく、枝が密になるのと、刈込や病害虫に強いので生垣に使われている。沈丁花とは無関係。
1_2  シャリンバイ(車輪梅)。花がモッコクに似ているので、ハナモッコク(花木斛)とも。枝が輪生で、花が梅に似たからの名前。これも、丈夫な木で生垣によく使われている。これは原産が日本・朝鮮だそうだ。
2  ノイバラ(野茨)。ノバラ(野薔薇)ともいうことがある。これも、日本、朝鮮、台湾に自生するという。果実が漢方に使われ、利尿、解熱、解毒剤として用いられるそうだ。

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2012年5月16日 (水)

五月日和が続く

 今日からプロ野球、交流戦が始まるのに、TV放送がない。相変わらず巨人中心なのか。空気が乾燥して、暑すぎないそよ風が吹く絶好の日和が続いている。4月に続き、次々と草木は新しい花々を見せてくれる。今日ちょっと珍しい草花を見たのでそれを載せた。
Photo  アリウム・ロゼウム。ネギやニンニクと同じアリウム(ネギ科)の仲間。彼岸花と同じように長い花茎の上に小さな花(1cm未満)をつけている。花の分岐点にある赤紫色の玉ムカゴ(珠芽)と言い、ネギ科につき易いもので、種子ではない。近くの草叢に数本あったが、園芸種である。
Photo_2  コンボルブス。ヒルガオ科の植物で、和名は三色昼顔。これは民家の庭先にあったが、日本には園芸用として明治時代に入った。地面を這うので、グラウンドカバーに用いられる由。
Photo_4  センダイハギ(先代萩)。伊達騒動を題材にした歌舞伎の演目「伽羅先代萩」に因んでの名前。ハギの名があるが、萩とは別種のマメ科の植物。日本北部に多いというが、これは近くの公園の草叢に群生しているもの。
 (訂正):5月8日に掲載した「ツルボ?」とした植物名は「ヘラオオバコ」でした。謹んで訂正します。

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2012年5月14日 (月)

倭国の興亡116: [異説] 舒明天皇の出自は百済王族か

 舒明天皇は『書記』によれば、敏達天皇の孫・押坂彦人大兄皇子の皇子とされている。ということは駕洛国(任那)の最後の王であった仇衡(クヒョン)王の成り代りである欽明天皇の曾孫である筈だ。ところが、舒明は百済川(大和)の川辺に百済宮や百済大寺を建てたり、百済武王の次女・宝皇女を妃に迎えたりした百済系の天皇と云われ、書記記述とは一致しない。即ち書記記述が疑わしい
116_1  舒明の諡号は「オキナガタラシヒヒロヌカノスメラミコト」であり、タラは百済系の加羅族の国であった「多羅国」出身の蓋然性も大きい。だが百済系の王族が倭国に渡ってにわかに倭国王にはなりえない。
 そこで、倭国に縁のある百済王族を探すと推古紀に597年百済威徳王の太子である「阿佐」が渡来している。阿佐はもと王世子であったが渡日していたので王位を継げず叔父である恵王に王位を奪われた。

 阿佐が舒明に成り代るまでに31年を要している。その間彼は田村皇子の名前で、百済系である大臣蘇我馬子と協力して、当時の皇太子であった駕洛国系の聖徳太子とその母を共に殺害して、駕洛国(任那)系の推古天皇(欽明の娘)が628年に亡くなるや聖徳の子である山背大兄王と王位を争い天皇に成り上がったと推定できる。そうであれば、60歳前後で天皇になり、13年間在位して70歳余で亡くなったことになり、諡号の初めの「息長(オキナガ)」に釣り合う天皇といえる。

 以上総合して、舒明天皇は百済の威徳王の王世子であった「阿佐王子」の成り代り説である。(以上:韓国、言語学者・姜吉云「倭の正体」より)
 尚、この当時、倭国の大王の王族は半島特に百済王族と非常に近しい関係にあり、血縁的にはかなり強い繋がりがあったと思われる。だからこそ、多くの技術者や学者が渡来し、又倭国文化を押し上げた多数の工人たちの渡来があって、革命的に倭国文化を進展せしめたものと考えられる。 

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2012年5月12日 (土)

薫風爽やか

 今朝は寒い感じがしたが、晴れ上がり気温が上昇して、実に爽やかな快晴となった。緑が徐々に濃くなるとともに、花の変化が早くなり、つい先だって咲いた花がもう実をつけている。つい体を動かしたくなる季節になって来た。その中の花々以下の通り。
Photo  ブルーデージー。南アからイギリスに入り日本に来た、キク科の花。種類が多い。似ているデージー(雛菊)とは別種ながら、ルリヒナギク(瑠璃雛菊)の別名がある。開花期は春から夏までと長い。すっきりした青色がよい。
Photo_2  スパラキシススイセンアヤメ(水仙文目)の別名がある。球根植物である。花の色や花弁の形状が多種ある。最近よく庭先に植えており、これも道路に面した庭のフェンス際に植っていたものである。
Photo_3  ウメモドキ(梅擬)。モチノキ科で、モチノキに実も似ているが、葉の形が違う。葉や枝ぶりが梅に似ているところからの名前というが、余り似てない。この実は小鳥のおなかを通過しないと発芽しない云う。遠方まで種が広がるようにとの神様の悪戯か。

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2012年5月11日 (金)

よく目に留まる五月の花

 小沢一郎氏、一審無罪であったに拘わらず、指定弁護士(検察官役)は控訴を決めた。強制起訴での判決であり、2審有罪の可能性は極めて少ないとされる中での控訴であり、可なり批判も多いようだ。裁判の有り方への批判も出ている。
 突風や、竜巻、季節外れの雹など、天変地異の予兆のような不安地球だ。そんな中、今日は至って平凡な、近頃目に付く花を載せた。
Photo  エゴノキ。北海道から沖縄まで全国の雑木林に見られるというが、最近庭木として植えている家が多い。果実を食べると「えぐい」ところから来た名前。下向きの花は芳香があり、長さ2cmほどの楕円形の実をつける。
Photo_2  ハルノノゲシ(春の野芥子)。最近道端で一杯花を付けている雑草。芥子と全く関係ないキク科の花。早春の若い葉は食用になるが、全草乾燥しても健康茶になる。
Photo_3  シラン(紫蘭):これこそどこの庭にも植わっている。これは日本も原産国だそうだ。群生しておればなかなか見ごたえがある。球茎は、止血、ひび、あかぎれに薬効がある。最近は白い花も植えられている。

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2012年5月10日 (木)

倭国の興亡115: 幻の百済大寺遺跡発見

 639年舒明天皇は百済川のほとりに大宮と大寺の造営を命じ、宮には西国の民を、寺には東国の民を増員して進められた。この大寺が百済大寺であり、その塔は九重塔であった。空前の規模を誇る大寺院であったという。大宮は百済宮と言い、翌年に完成しここに遷っている。
115  1997年から始まった桜井市の発掘調査で思いがけない大寺院跡が発見された。農業用の吉備池のほとりで、吉備池廃寺と名付けられた。発掘により東側が金堂跡、西側が塔跡であると判った。金堂跡は東西約37m、南北約28mあり、塔跡は一辺約30mあって、いずれも飛鳥時代の寺院跡として最大であり、特に塔跡は群を抜いている。
 また、出土した643年に金堂が建立された山田寺の瓦の祖型にあたっているので、年代はそれより若干古いとみられる。

 吉備池廃寺639年に造営が開始された百済大寺である可能性が極めて高く、飛鳥時代の寺院跡では他に例のない規模の塔跡は、屹立する九重塔のものに相応しいし、瓦から推定される年代も矛盾しない。
 そうすと、吉備池の西を北西に流れる米川こそが百済川であろう。百済宮がこの川のほとりから発見されるのもそう遠くないであろう。

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2012年5月 8日 (火)

チョッと珍しい花

 先日の茨木、栃木地方の竜巻には驚いた。過去最大と言われるから、誰もが吃驚しただろうが、今後この災害を防ぐべしと云っても、地震とは同列には論じ得まい。とにかく最近の自然災害は巨大化してきたが、何か人間が原因を作ったのだろうか
 そう言えば、路傍の花々も昔は見なかった花が増えている。今日はそれを紹介。
Photo  羽衣ジャスミン。この花、2、3年前はなかったが、最近よく植えられている。中国原産だが、欧米で観賞用に栽培されたものが入ってきた。花径約2cmの香りがよく病害虫につよいので、生垣のフェンスや壁のカバーに植えられている。
Photo_2  ベニバナツメクサ(紅花詰草)。レンゲやシロツメクサと同じ
マメ科で、緑肥植物として本来、牧草として播種・栽培されたのが野生化したもの。だから、北海道では一面この花が咲いているかもしれないが、当地では珍しい。
Photo_3
  ヘラオオバコヨーロッパ原産。江戸時代の帰化植物。荒地、牧草地、河川敷など何処ででも育ち、又日陰でも育つ。これは、近くの公園の傾斜面に群生していたものである。

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2012年5月 7日 (月)

倭国の興亡114: 推古没後の王位継承問題

  622年厩戸皇子(聖徳太子)が没し、626年には蘇我馬子が、更に翌々年には推古女帝が亡くなって、推古王権の中枢人物が相次いで他界した。上宮王家(聖徳太子家)は山背大兄王へ、蘇我氏は蝦夷へと世代交代した。
 王位継承の有力候補は田村皇子山背大兄王(厩戸王の子)であった。女帝は二人を病床に呼び田村皇子には「天下を治めるのは大任だ。たやすく口にすべきでない」と言い、山背大兄王には「自分の意見を言わずに、群臣の意見に従うように」と諭した。当時はまだ群臣が新大王を推戴するのが原則であり、前大王が後継に関し発言したのは異例であった。もっとも推古の遺言は二人に自重を求め、後継について明言を避けている。
114  山背大兄王の母は馬子の娘・刀自古郎女で血縁は蘇我氏に近いが、なぜか蝦夷とは犬猿の仲であった。一方、田村皇子は敏達天皇以来の非蘇我系の系譜をひくが、馬子の娘・法提郎媛(ホホテイノイラツメ)を娶り、古人大兄皇子が誕生していた(系譜参照)ので、蘇我氏に抱き込まれていた。
 蝦夷の腹は決まっていたが、慣行を無視できず、群臣に後嗣をはかったが、意見は眞二つにわかれ、王位継承問題はますます混迷を深めた。
 問題の決着を決意した蝦夷は、大兄王支持の急先鋒である境部摩理勢の説得を試みたが、反発した摩理勢は蘇我一族の墓所を荒し、引き籠った。蝦夷は兵を起こして攻め、摩理勢を自害に追い込んだ。

 こうして田村皇子が即位し舒明天皇となる。そして王位継承に前大王の遺言が新しい要素として加えられた。即ち、前大王の意志が王位決定に重要であると群臣が考え始めたのである。こうして、王位の譲位実現近づきつつあった

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2012年5月 5日 (土)

やっと晴れた五月連休

 今年の大型連休は、天候不順で、東北地方は豪雨で水災害も発生した。震災から立ち上がれと全国各地から支援に駆けつけた人々も十分な活動ができず、残念だったろう。
 博多も港祭り「ドンタク」のパレードも世界各地からの参加もあったが、天候不順で、今一つ盛り上がらなっかたようだ。今日は子供の日、せめて子供たちには活発に遊んで元気に育つよう祈る次第である。

 この雨で、満開のツツジが傷んでしまい残念だが、歩いていると、道端にも色んな花が咲いていて楽しい。
Photo  ムラサキツユクサ(紫露草)。花径3cmほどあり、普通の露草よりかなり大きい。北米原産の園芸帰化植物。花色はこのほか白、桃色もある由。学名Ttandescantiは英チャールズ1世の庭師の名に因んだものとか。花は1日で萎むが、次々咲く。
I_2  ヒルサキツキミソウ(昼咲月見草)。これも北米からの帰化植物で、野生化したもの。昼咲く月見草とは変な名だが、待宵草と同じ属ながら、昼も咲いているところからの名前。なんともやさしい色合いである。花径は5cm位の大きな花である。

 今日立夏となったので、小生のホームページの「俳句」と「禅語」の項は、夏季号に更新しています。ついでにご覧ください(URL:http://hihabe/com です)。

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2012年5月 3日 (木)

倭国の興亡113: 「天皇」の萌芽と朝庭の形成

 第1回遣隋使(600年)の時、隋書によれば、「倭王」の名を「姓は阿毎(アメ)字は多利思比孤(タリシヒコ)、阿輩雞弥(アメキミ)」と号したとある。これは誰なのか論議を呼んだが、現在は以下のように解されている。
 まずアメタラシヒコを中国は勝手に姓と字に分解して受け取っているが、「天足らし彦」即ち足る=満るであり、「天の満ち足りた男子」の意で
大王の尊称である。それを中国流に姓名とした。又アメキミ=天君で、天の子即ち天つ神の子孫であるという観念が成立していたらしい。
 推古朝では既に大王を天つ神の子孫とする
「天孫思想」が芽生えていたが、その背景の「王権神話」は、まだ「記紀神話」が体系化されてない時期で、高句麗の王権思想を借用したとの説がある。
 推古朝の王権思想が
「天」と密接にかかわっていることは、6、7世紀の大王を見ても、欽明アメクニオシハラキヒロニワ)、皇極アメトヨタカライカシヒタラシヒメ)、幸徳アメノヨロズトヨヒ)、天智アメミコトヒラカスワケ)、天武アメノヌナハラオキノマヒト)と多くの大王がアメ(天)から始まっていることから判る。
 113_2 倭国の天は中国の徳治の「天命」とは違い、
事依させ即ち、「天に加護され、委ねられた」感じの王権思想である
 
603年には小墾田宮が新たに造営された。608年の隋使・裴世清や605年の新羅・任那使の来朝の際、小墾田宮の「朝庭」で行われた外交儀礼の描写が「書記」にある。小墾田宮は後の朝堂院の原形になるような平面構造をしていた。宮の正門である南門を入ると朝庭があり、その左右に朝堂が並び大臣ほか諸臣の座がある。その北に大門が開かれており奥には大王が出御する大殿があった。新しい構造の宮で、王権の中枢の政務・儀礼空間「朝庭」が誕生した。それが604年朝礼(朝廷の礼法)の改定であり、新しい政務・儀礼に相応しい規範意識の形成を目的とした。所謂「朝廷」は政府であり、国家・天皇の意味でも使われるが、この時期の「朝庭」朝堂院に相当する空間を意味した。「朝庭」の持つ特別な空間的性格は「治天下大王」、更には天皇の統治権の正統化に重要な役割を果たしたのである。は臣下の天子に朝見するから来ており、天子は南に向かって臣下に対面した。宮の正殿(大極殿)は朝庭に南面する配置になっている。だから、朝庭は大極殿に北面する場である。
 

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2012年5月 2日 (水)

天候不順の五月連休

 毎年、ドンタクには必ず雨が降る。今年も雨が降ったり止んだりの連休入り。野田さん折角日米首脳会談に臨んだが、米国内事情の間の悪いときに行ったものだ。日米間も連休天気と共にすっきり晴れ上がらぬものか。今時の花を紹介。
Photo  ナニワイバラ(難波茨):中国原産で江戸時代に渡来した由。難波商人により輸入されたことからの名前。花からほんのりと香りがする。強い木か、四国、九州では野生化している。別名オオイバラ、枝垂れ茨、黄いばらなど呼ばれる。
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 アジュガ。洋名のAjuga reptansから来ている。別名ジュウニヒトエ(十二単)、セイヨウキランソウという。地を這うので、グランドカバーに使われる。秋には葉が赤紫色に色付き二度楽しめる。耐陰性強く1日1時間の日当たりで充分とか。
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 ハナカイドウ(花海棠)。江戸時代、中国より渡来とか。実のなる「実海棠」に対し「花海棠」と云う由。この写真は日陰で、雨に打たれた直後のもので、花弁が萎れてしまい、蕾が多いものとなった。

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2012年5月 1日 (火)

野山すべてが若緑に覆われて

 野山が新緑に覆われ、やさしい陽ざしの中、気持ちのいい風が吹き抜ける。つい外に出たくなる絶好のゴールデンウイークとなった。・・・が、人出が多く、車は渋滞。博多はドンタク祭りとなるが天気予報は雨とか。私は昨日まで帰省、列車の旅もよかった
 今日は最近民家の庭先に多い花木(黄色の花が多い)を載せてみた。
Photo
モッコウバラ(木香薔薇)。この花、最近何故か多くの庭に植えられている。尤もこの花江戸時代から庭植えされているそうだ。花がかすかにいい香りを出すところからの名前。尚これは刺がないバラ故好まれるらしい。
Photo_2
ゴールデンクラッカー。ユリオプス属の木。ギリシャ語の大きな目を持つとの意のEuryopsという花の形に由来する名前でユリオプス・ゴールデンクラッカーが正式名。開花期が3~6月と長いのも庭木使われる理由の一つだろう。
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ムレスズメ(群雀)。中国原産。小さな花が一杯付き、雀の群れに見立てての名前。中国名は「金雀花」江戸時代に渡来したエニシダの近縁種。盆栽にも用いられる。

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