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2012年4月18日 (水)

倭国の興亡110: 対中外交復活の真の目的

 7世紀初頭、隋との外交が復活したが、冊封体制外での朝貢関係を継続した。半島三国より遅れて朝貢を再開した倭国は、半島三国より低い官爵しか受けられないのは、倭の五王が遣使を途絶した経過を見ても明らかであった。
 又、遣隋使、続いての遣唐使の派遣目的が、もはや官爵を授かることが目的ではなくなっていたからである。国内で「治天下大王」として独自の権を確立しつつあった倭王にとって、中国王朝のお墨付は不要になった。むしろ、皇帝に臣下の礼をとったことが明らかになれば、国内での大王の権威が失墜しかねなかった。
110_2   国家建設に不可欠の仏法・儒教・法制・医術などの最新の知識の摂取が使節派遣の最大の目的であった。
 隋書によれば、607年の遣隋使の目的が「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。・・・・・・兼ねて沙門数十人、来たって仏法を学ぶ」遣使目的を仏法を学ぶこととしている。翌年の使節には留学生と留学僧が4人ずつ伴われており、その中には大化改新で重要な役割を果たす高向玄理・新漢人日文(僧旻)・南淵請安などが含まれている。又、623年建国間もない唐から、遣隋使で中国に渡っていた留学生恵日・福因が帰国し、「法が整備された大唐国に使節を絶やさぬ様に」と建言している。

 勿論中国が初めから冊封なしの朝貢関係を認めたわけではない。1、2回目の遣隋使以降、「書記」の記事がとんでいて、「旧唐書」に朝廷の外交儀礼上何らかのトラブルを匂わせる記事があるなど、冊封をしたい中国とそれを拒否する倭国間でのトラブルの存在が想定される。しかし、最終的には唐側も倭王権の外交方針を受入れ、新しい大陸ルートとして切り開いた点、高く評価できる。 
 尤も、倭国的「天下」観が中国王朝に全く通用しなことを知った倭国は、以降、我流の天下思想を振りかざすことは決してせず、国内向けと中国向けの君主号の使い分けをしていったのである。

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