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2012年4月 4日 (水)

倭国の興亡107: [異説] 欽明朝の真実と以降王朝の架空説

 継体朝(507-531)のあと、継体と手白髪姫(仁賢天皇の娘)の間に生まれた欽明天皇が即位した(在位539-571年)。しかし、、継体が大和磐余宮に入った時既に75歳であったことなどから、この両者の父子関係は疑わしいとする論が多い。
 書記・継体紀23条では、金官伽耶(駕洛)の実質的王・仇衡(クヒョン)王は、駕洛国が滅びる3年前(529年)に倭国に渡り、その同月に帰国したとなっている。その3年後の532年に駕洛国は滅び、仇衡王の弟仇亥王を新羅の国都・慶州にに行かせ、降伏している(「三国遺事」)。降伏した仇亥王は本国をそのまま色邑(荘園)として賜り「上等」の位に就いた(「三国史記」)。
107_2  しかし、仇衡王が亡くなったとの記事はなく、唯「位を失い国を去った」とあるだけでである。そのまま倭国に残ったか、或いは一旦帰国後、3年後再渡来した(「書記」)とし考えられないという。即ち、仇衡が蘇我氏に迎えられ倭国に新王朝を開いて、欽明天皇になり変わったとするものである。この様に考えることにより、「書記・欽明記」の記事が半島関係で満たされている意味が了解され易くなるともいう。
 駕洛国の滅亡と欽明の即位が同年であること、欽明の宮号「金刺宮」が加羅の金海の宮も表し、又書記・継体紀に「百済本記によると天皇と太子・皇子が俱死す」とある記事もこれら倭の異変を伝えたと見れる
 従って、欽明にとって本国の任那再興は終生の念願であり、再建の詔勅だけでも541年~571年の間に8回に及んでいることの理由がよく判る。

 このような状況下、当時の政界を支配していたのは蘇我氏であり、彼を支えたのは加羅系(伽耶系)の諸豪族、葛城・平群・巨勢と5世紀中葉に渡来した東漢族達であって、反任那・加羅的政策の継体朝とは対立した。
 このような政治情勢を反映した「日本書紀」の記述は殆ど信用できず、敏達~皇極の6代の天皇(大王)は全て架空のものであり、本当は「蘇我馬子・蝦夷・入鹿こそ大王であった」とする見解がある。この蘇我一族=大王説は、多くの史学家が唱えるもので、よしんば敏達以下の天皇が存在したとしても、全くの傀儡で、実権は蘇我氏が掌握したことは間違いがない。
 また17条憲法や大化改新による諸制度の改新は殆どが蘇我氏の施策であった事は多くの学者の見解が一致するところである。

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コメント

先生の説、「倭国と朝鮮半島南端の関係」、「継体天皇は半島南端の一国の王で在った」に賛成いたします。只、「蘇我氏大王説」は「蘇我氏等渡来系の豪族は先渡来で在った」また、敬体大王は朝鮮半島から日本列島の北岸、日本海沿いに北上、途中、出雲を併合し、越国、近江、山城を経て大和に入った。以後、浪速に本拠を置いていた倭国の主力と戦った。

と考えました。私は一介の市井の老人ですが、皇国史観に埋没せんとする我が国の古代史が見過ごせません。
「大和」に固執する歴史学者の先生方の考え方??否、「大和」がなぜ斯くも、重要なのか??
「大和」より、瀬戸内海に面し、交通に便利な「浪速」が無視され、軽く見られるのか???
私のHPは「http://www.kuwana.ne.jp/youzhu10348/historyindex.html」
です。ご一読下さい。

投稿: 文伯眉 | 2014年1月23日 (木) 16時21分

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