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2012年4月13日 (金)

倭国の興亡109: 対中国外交の復活

 推古朝の特記事項は、120数年ぶりの対中外交の復活であろう。600年、南北朝統一の隋に、第1回の遣隋使を派遣した。581年に建国の北朝隋が589年に南朝隋を併呑し統一隋が成立すると、高句麗、百済は直ちに遣使朝貢し、冊封を受け、594年には新羅も遣使し冊封された。
 ところが、隋と高句麗が対立し、598高句麗王元は靺鞨人1万余騎を率いて遼西地方を襲撃。怒った隋の文帝が高句麗を討つが、兵糧不足と高句麗王の謝罪で征討は中止したものの、一触即発状態ではあった。

 一方、高句麗570年以来、数回国書を携え、修好を求め倭の越に来朝していた。そして、595年には僧・恵慈が使節として来倭し、20数年倭国に滞在した。
 遣隋使の期間(600~614年)は恵慈の滞在期間で、又隋の高句麗征討期間とも重なり合う。この時期、605年には飛鳥寺の丈六仏の資金黄金三百両を贈って来るなど、倭国へ最も接近した時期で、そのパイプ役が恵慈であり、厩戸の仏教の師以外に外交顧問でもあり、対中外交再開を触発したと見られる。
 1回目の遣隋使派遣(600年)では、高祖文帝が倭国に関心を示し風俗習慣など尋ねたが、倭王の独自性のアピールは全く通じず、逆に呆れられ、中国式の聴政(執政)を教えられてきた。
109  倭王権は自分たちの政務・儀礼形態が、国際社会で全く通用しないことを思い知らされた。これを機に、小墾田宮の造営、冠位十二階、憲法17条の制定、朝礼(朝廷での礼儀作法)の改定など王権の政務・儀礼形態の全面改正を急速に進めたことからも、カルチャーショックの大きさが推察できる。

 2回目小野妹子を大使とした607年の使節が対等外交として有名になった。「日出る処の天子、云々」の書き出しの国書である。これが煬帝の不興を買い「蛮夷の書、無礼なり。又以て聞することなかれ(二度ととりつぐな)と言わしめた。
 「天子」は天下にただ一人、中国皇帝のみなのだ。種々問題はあったものの、翌608年、隋は裴世清を送使にして、倭国使一行を倭国に送りかろうじて国交は継続した。その要因はやはり、隋と高句麗の対立があり、対高句麗征討の軍事費も大きく、倭国を高句麗支援に回したくなかったことであろう。 

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