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2012年4月

2012年4月27日 (金)

倭国の興亡112: 十七条の憲法

 冠位十二階制定の翌604年には、十七条憲法が制定された。「書記」には「皇太子親(ミズカ)ら肇(ハジ)めて憲法十七条を作る」と記しており、聖徳太子が作ったとある。
 しかし、古くから偽作説があった。先ず、江戸時代、刈谷棭斎(考証学者)が太子作を否定している。又、津田左右吉氏は12条にある「国司(クニノミコトモチ)」という言葉が大化以降のものであること、国民を君・臣・民の3階層に分けているが、未だ氏族制度の時代でこの階層がなじまないこと、又中国古典の語が多く、奈良時代の文章に似ていることを理由に書記編纂段階(大化以降)での官人訓戒用に作ったものとの説を出している。
 一方で、太子一人の作か否かは別に、内容が推古朝の時代に相応しいとして太子説をとる人が多い。用語では、「書記」編纂時の言葉を用いたため、大化以前にはなかった用語を使用していると考えられている。
11217  十七条憲法は、君・臣・民の3階層のうち、「臣」即ち官人を対象にしたもので、臣が君の命令を受けて職務遂行し、民の支配にあたる際に守るべき規範を説いたものである。その背景は儒教思想を基礎とし、仏教思想も織り交ぜての部分もあるが官人として従うべき規範を説いている。
 一に曰、和を以て貴しとなし、忓(サカ)ふること無きを宗とせよ(略)
 二に曰、篤く三宝を敬
(ウヤマ)へ、三宝とは仏(ホトケ)、法(ノリ)、僧なり(略)
 三に曰、詔(ミコトノリ)を承りては必ず謹め(略)

といった調子で、(略)の部分で、各条判りやすく詳しい記述がなされている。上記三条などは当然すぎる内容であり、又八条では「郡卿百寮、早く朝(マイ)りて晏(オソ)く退でよ」(略)のような漠然とした規定もある。(図は岩崎本「日本書記」巻二十二国宝・11世紀の書写の17条憲法の部分))
 余りにも当然すぎるような内容の条文などがある事からも、官僚制の萌芽期に相応しいものであり、初めての成文法らしく、推古朝のものとみられるのだ。

 この憲法は倭王権が儒教・仏教を新しい国家建設に必要なイデオロギーとして重視し、その思想を政権運営の基礎としたことがよく伺える。

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2012年4月26日 (木)

特別号 雨に打たれた我が家の花

13  昨日来の雨に打たれ傷んでしまった、我が家の庭の花々。
1  綺麗に開き切ったところで紹介するつもりだったが、風混じりの長時間の雨にうたれてしまったので、記録のため今朝撮ったもの。
Photo  残念なので、ブログに載せて置くことにした。

Photo_2  1.イチハツ:これは雨前のもの

 2.テッセン

 3.ボタン

 4.ツツジ

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2012年4月25日 (水)

野草の可憐な花

 大飯原発の再稼働を巡って、政財界或いは学界において、意見、見解が百家争鳴の感があるが、根底になる日本の在り方、更には人間の在り方・倫理に立っての将来展望をまず整理すべきでないか。でないと議論はまとまらない。 これに比べ、野草は「自然の摂理」に沿って、春にはきちんと可憐な花を咲かせる。今回は野草を紹介
Photo  ネモフィラ。和名は瑠璃唐草。北米原産。ギリシャ語のnemos(小森)とphileo(愛する)が組み合わさっての名前で、森の中などに自生する。これは街中の日陰の草叢に密生して居たもの。綺麗な花だが、移植には弱いそうだ。
Photo_2
 タガラシ(田辛子)。田枯らしとも言われる。先史時代、稲と共に入ってきた「史前帰化植物」と呼ばれるから、現日本人よりずっと古い生物だ。有毒植物のキンポウゲ(金鳳花)やトリカブト同じ仲間。田圃や小川のほとりによく生える。
Photo_3
 ツタバウンラン(蔦葉海蘭)。別名ツタカラクサ(蔦唐草)。蔦の葉に似た葉を持ち、ウンラン似ているところからの名前。ヨーロッパから大正元年(1912)に観賞用として渡来した。石垣や城壁の隙間に生える蔓性植物。

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2012年4月24日 (火)

野生化する園芸草花

 最近は洋風の家が増え、庭に草花を植える場合が多い。(尤も庭木を植えるほど庭地がない)。故に、いろんな色鮮やかな草花が目に付くが、捨てられ野生化した花も多い。
Photo  レースラベンダー。地中海原産のラベンダーの一種。この花は洋風家屋によく合う花で、最近多く見かける。学名Lavandula pinnataはlavare(洗う)が語源で、ローマ時代、入浴時の香水代わりに使用されたからとか。芳香により「香りの女王」とも呼ばれる。ポルトガル国花。
Photo_2
 ムラサキカタバミ(紫片喰)。別名キキョウカタバミ(桔梗片喰)。南米原産で、江戸末期に観賞用として導入された帰化植物。普通の庭地によく植えられているが、野生化して草地にもよく見かける。鱗茎で繁殖し除去困難な雑草とされる。
Photo_3
 シバザクラ(芝桜)。別名
ハナツメクサ(花詰草)。北米原産で、古くより石垣や斜面を彩る花として親しまれている。地を這うので、土の流出防止の効果がある。花は他にピンク、白もある。

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2012年4月23日 (月)

見慣れぬ花

 いろんな草木の花が一気に開花した感があり、余り見慣れない花も多い。今日はその内、私が殆ど見掛けず、勿論名前も判らなかった花2点を紹介しよう。
Photo  花1ムベ(郁子):別名トキワアケビ又はウベ。これは、私のウオーキング路圏内の民家の庭に2本だけしかないもの。朝鮮半島南部及び関東以南に分布しているつる性の植物の由。花後5cm位の果実をつけ、熟した果実はほの甘くおいしいという。天智天皇が食して「むべばるかな」と云われての名だというから、相当古くからあるようだ。
Jpg  花2&3ネコヤナギ(猫柳)。名前を聞けば、昔はよく川や池の畔には大抵植わっていたもの判ったが、最近殆ど見ない(特に街中では)。しかもこれは水辺とは程遠い民家の塀に囲まれた中で、4m近い大木だったので判らなかった。
Photo_2
 花3が拡大写真。この花が猫の尻尾に見立てられての命名で、エノコロヤナギ(狗尾柳)ともいう。水のあるところによく育ち、学名SalixもSal(=近い)+lix(=水)から来ている由。
 万葉集には「山の際(は)に雪は降りつつしかすがに この川楊(かわやぎ)は萌えにけるかも」(坂上郎女)とある位だから、相当古くからある木らしい。

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2012年4月22日 (日)

倭国の興亡111: 小墾田宮の造営と冠位十二階

 初の遣隋使派遣でカルチャーショックを受け、「蛮夷の国」呼ばわりされた倭王権は矢継早に諸制度の改革に着手した。
 先ず603年に、小墾田宮(オワリダノミヤ)が新たに造営され、遷った。推古16年紀によれば、後の朝堂院の原型になる平面構造だった。正面の正門(南門)を入ると庭(中央広場)がありその左右に庁(マツリゴトドノ)が並び、大臣・大夫・王子・諸臣等の座がある。その北(奥)中央に大門が開かれており、その奥には大王が出御する大殿がある。この様に左右対称の整然とした配置は小墾田宮が初めてだろう。
 当然新しい宮殿では、政務・儀礼の改革を伴なった。604年朝礼(朝廷の礼法)が改定され、礼儀作法全般にわたり新しく定められた。新しい宮殿での新しい成務・儀礼の相応しい新しい規範意識の形成が目的であったろう。
11112  又、603年には冠位十二階が制定された。これは『書記』には記載なく、『隋書』に記載があり、推古朝のものに間違いがない。冠位とは朝廷に出仕する官人の序列を定めた位階の制度で、徳・仁・礼・信・義・智の六つの儒教の徳目にそれぞれ大小を付けた十二階から構成された。それは儒教の礼の観念によって、国際的にも通用する新たな政治秩序を作り出す意図があった。
 この冠位十二階は聖徳太子の独創と思われたこともあるが、証拠はない。最近では朝鮮三国の官位の制度、特に高句麗と百済の冠位の影響を受け、馬子の関与もあったと推定されている。
 冠位には夫々色の異なる絁(粗い絹)で縫い作った冠が決まっていた。朝廷の恒例の儀式や臨時の即位式・外交儀礼のときは冠位に応じた冠をつけ中央の庭に整列した。冠は官人の序列の標識なのである。

 冠位は対外関係で重要な役目をし、中国、朝鮮諸国との外交の場では不可欠となり、蛮夷の国からの脱却の第一歩が踏み出された。但し、冠位の制として不完全でもあった。官人や畿内法族にも及んでいたが、王権の中枢を占める王族と大臣蘇我馬子の一族は冠位を授けられていない。即ちこの時点での蘇我氏は大王家の人々と同じく冠位の秩序を超越した存在であった。(蘇我氏=大王説を裏付けるものか?)

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2012年4月20日 (金)

今が旬の花

 国会は百家争鳴の混乱で、行方定まらぬ態だが、野山は百花繚乱で今を盛りと咲き誇っている花たちが多い。その中の花の王様たちを取り上げてみた。
Photo_3  ボタン(牡丹)。正に花の王様と云われる風格を持つ。1929年までは中国の国花だった「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」と美女のたとえに使われる位好まれた花だ。昔から詩歌や絵画、着物の図柄にも使われる所以である。
Photo_4 
 コデマリ(小手鞠)。別名スズカケと称されるが、スズカケノキ(プラタナス)とは別。小さい手鞠のようなところからの名前である。最近庭に植えている家が増えた。ユキヤナギとは同属で、花が似ている。これも中国からの渡来種。
Photo_5 
 クルメツツジ(久留米躑躅)。今当地では満開である。19世紀半ば久留米藩士・坂本元蔵が霧島ツツジをもとに改良した育成種で、盆栽・庭植えに適して、京・江戸へ広がったもの。花が小さくサツキと区別しがたいが開花期が早い。「霧島ツツジ」の野生種は阿蘇山や九重山に繁殖している保護植物である。

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2012年4月18日 (水)

倭国の興亡110: 対中外交復活の真の目的

 7世紀初頭、隋との外交が復活したが、冊封体制外での朝貢関係を継続した。半島三国より遅れて朝貢を再開した倭国は、半島三国より低い官爵しか受けられないのは、倭の五王が遣使を途絶した経過を見ても明らかであった。
 又、遣隋使、続いての遣唐使の派遣目的が、もはや官爵を授かることが目的ではなくなっていたからである。国内で「治天下大王」として独自の権を確立しつつあった倭王にとって、中国王朝のお墨付は不要になった。むしろ、皇帝に臣下の礼をとったことが明らかになれば、国内での大王の権威が失墜しかねなかった。
110_2   国家建設に不可欠の仏法・儒教・法制・医術などの最新の知識の摂取が使節派遣の最大の目的であった。
 隋書によれば、607年の遣隋使の目的が「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。・・・・・・兼ねて沙門数十人、来たって仏法を学ぶ」遣使目的を仏法を学ぶこととしている。翌年の使節には留学生と留学僧が4人ずつ伴われており、その中には大化改新で重要な役割を果たす高向玄理・新漢人日文(僧旻)・南淵請安などが含まれている。又、623年建国間もない唐から、遣隋使で中国に渡っていた留学生恵日・福因が帰国し、「法が整備された大唐国に使節を絶やさぬ様に」と建言している。

 勿論中国が初めから冊封なしの朝貢関係を認めたわけではない。1、2回目の遣隋使以降、「書記」の記事がとんでいて、「旧唐書」に朝廷の外交儀礼上何らかのトラブルを匂わせる記事があるなど、冊封をしたい中国とそれを拒否する倭国間でのトラブルの存在が想定される。しかし、最終的には唐側も倭王権の外交方針を受入れ、新しい大陸ルートとして切り開いた点、高く評価できる。 
 尤も、倭国的「天下」観が中国王朝に全く通用しなことを知った倭国は、以降、我流の天下思想を振りかざすことは決してせず、国内向けと中国向けの君主号の使い分けをしていったのである。

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2012年4月16日 (月)

チョッと珍しい花木

 花々が次々と咲き、正に春爛漫の境で、花を追っかけていると、飽きないこの頃である。その中でチョッと珍しい花木を紹介する。
Photo_2   ベニバナトキワマンサク(紅花常盤万作)。トキワマンサクの変種。花弁4枚の花が1ヶ所から5個出て、密集しているので、リボン状の花弁の塊に見える。中国原産の常緑小高木で、1900年代初め日本に入って、1931年伊勢神宮で発見されたとある。マンサクとは異種。
3_2 
 リキュウバイ(利休梅)。花が梅に似るが、大きさが違い、バラ科ヤナギザクラ属で梅とは別種。又茶花によく使われるが、明治末に中国から来たもので、利休とは全く関係ない。九州以南では地植えされ、花がぎっしり付く落葉低木である。
I_2
 グミ(茱萸)。グミの実は食べるのでよく知っているが、花はあまり記憶にない。この時期、この花がぎっしりついている。方言のグイ(刺のこと)とミ(實)が縮まって「グミ」となった由。グミの種類は多く、日本でも8種類あるそうだ。

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2012年4月14日 (土)

花咲く春に、北鮮ミサイル炎上!

 あれだけ世界を騒がせ乍ら、北鮮ミサイルは打ち上げ失敗に終わった。一部には方向制御不能で、自爆させたとの観測もある。何れにせよ世界中がホッとしたのでないか。
Photo  世界の騒動をよそに、草木は百花繚乱の態である。
 アメリカフウロソウ(風露草):アメリカ由来の草花で、日本では江戸時代に売られていたそうだが、今は野生化し、土手や道端に可憐な花を付けている。花後、紅葉し草紅葉になる。
Photo_2
 ハナズオウ(花蘇芳):花柄がないので、枝に直接花が付き、木がピンクに覆われている。花後平たい数センチの豆果が付き、葉も出てくる。染色用のスオウを煮出した色と似ている故の名前だそうだ。
Photo_3
 ヤハズエンドウ(矢筈豌豆):一般的にカラスノエンドウ(烏野豌豆)の呼び名が定着している。路傍や堤防に繁茂する雑草である。原産地がオリエント、地中海地方だそうで、日本でも南方に多い由。これも当初は栽培種で豆果を食したそうだ。

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2012年4月13日 (金)

倭国の興亡109: 対中国外交の復活

 推古朝の特記事項は、120数年ぶりの対中外交の復活であろう。600年、南北朝統一の隋に、第1回の遣隋使を派遣した。581年に建国の北朝隋が589年に南朝隋を併呑し統一隋が成立すると、高句麗、百済は直ちに遣使朝貢し、冊封を受け、594年には新羅も遣使し冊封された。
 ところが、隋と高句麗が対立し、598高句麗王元は靺鞨人1万余騎を率いて遼西地方を襲撃。怒った隋の文帝が高句麗を討つが、兵糧不足と高句麗王の謝罪で征討は中止したものの、一触即発状態ではあった。

 一方、高句麗570年以来、数回国書を携え、修好を求め倭の越に来朝していた。そして、595年には僧・恵慈が使節として来倭し、20数年倭国に滞在した。
 遣隋使の期間(600~614年)は恵慈の滞在期間で、又隋の高句麗征討期間とも重なり合う。この時期、605年には飛鳥寺の丈六仏の資金黄金三百両を贈って来るなど、倭国へ最も接近した時期で、そのパイプ役が恵慈であり、厩戸の仏教の師以外に外交顧問でもあり、対中外交再開を触発したと見られる。
 1回目の遣隋使派遣(600年)では、高祖文帝が倭国に関心を示し風俗習慣など尋ねたが、倭王の独自性のアピールは全く通じず、逆に呆れられ、中国式の聴政(執政)を教えられてきた。
109  倭王権は自分たちの政務・儀礼形態が、国際社会で全く通用しないことを思い知らされた。これを機に、小墾田宮の造営、冠位十二階、憲法17条の制定、朝礼(朝廷での礼儀作法)の改定など王権の政務・儀礼形態の全面改正を急速に進めたことからも、カルチャーショックの大きさが推察できる。

 2回目小野妹子を大使とした607年の使節が対等外交として有名になった。「日出る処の天子、云々」の書き出しの国書である。これが煬帝の不興を買い「蛮夷の書、無礼なり。又以て聞することなかれ(二度ととりつぐな)と言わしめた。
 「天子」は天下にただ一人、中国皇帝のみなのだ。種々問題はあったものの、翌608年、隋は裴世清を送使にして、倭国使一行を倭国に送りかろうじて国交は継続した。その要因はやはり、隋と高句麗の対立があり、対高句麗征討の軍事費も大きく、倭国を高句麗支援に回したくなかったことであろう。 

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2012年4月11日 (水)

草花も沢山咲いている Ⅱ

 野草を見ながら歩くと、いろいろ珍しい花もあり、飽きない。昨日に続く野草No.2。
Photo  クサイチゴ(草苺)。草かと思ったら、これは落葉小低木に入るである。花弁の下にあるのは蕚なのか、葉なのか。果実は大型で赤熟し、甘酸っぱい味がするとか。広く分布し、林地に多くみられる。これは山際の公園で撮ったもの。
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 ドウダンツツジ(灯台躑躅)。可愛いスズランのような花を付けている。ドウダン(灯台)は枝分かれが、昔灯りに用いられた灯台の脚部に似ているところから付いた名。広葉低木樹で、公園の植え込みなどによく使われている。満天星は中国名。
I3
 ツルニチソウ(蔓日草)。最近、路傍や草地のどこにでもある草花。これを園芸用に斑入りしたのがこれ。石垣や門際によく植えられている。どこでも育ち、手がかからず、グランドカバー用にも使われだした。

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2012年4月10日 (火)

草花も沢山咲いている

 桜が散り始めると、吾負けじといろんな草花が咲き乱れている。普段見過ごす花を写してみた。
Photo  トゲミノキツネノボタン(刺実の狐の牡丹)。長い名だが、花後に着く集合果の形状から来た名のようだ。似た花を持つのが多く区別しがたいが、花弁に光沢があるのが特徴。実は毒を持ち、又葉はセリと似ているが毒を持っているので要注意
Photo_2
 ノジスミレ(野路菫)。スミレも種類が多く、区別しがたいが、これは花弁の側弁が無毛なのが特徴。極ありふれた種でどこにでも見受けられるスミレ。よく見れば、葉の表裏や茎に白い短い毛が一杯生えている。この花はいい香りが強くするので確認しやすいとか。
Photo_3
 コメツブツメクサ(米粒詰草)。この花小さく2mm以下というが、写真はまだ蕾なので余計小さい。クローバー様の葉は大きい方で、荒地、路傍に繁茂し、よく見ると黄色の点々が花だと判る。余程暇人でないと気付かないかも。

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2012年4月 9日 (月)

倭国の興亡108: 新羅征討の挫折

 562年伽耶諸国の全域を新羅に併合され、倭国は南鮮から全面撤退する状況となり、欽明帝は度々新羅打倒を図ったが、成就せず、その回復を遺詔とした。
 子の敏達帝は先帝の遺詔を果たすため、574年筑紫国に新羅滅亡の祈願・祈祷の古宇美神社を創建した(神功・応神を祭祀)。更に583年伽耶再興の秘策聴聞のため、500の兵を以て百済に任官していた日羅を召還。日羅は「王朝とは逆の今の新羅とは事を構えず、百済の陰謀に嵌るな。任那滅亡は伽耶4県2郡の百済への割譲にある」と返答。これを敏達帝が入れなかったことが後の白村江の敗戦に繋がったと云われる。日羅は百済の刺客に暗殺されたという。
108_2  「任那復興」は倭国の歴代皇統の遺詔として残され、6世紀末から7世紀初頭まで、倭国の新羅討伐意欲は、怨念とも思えるほど激しいものがあった。しかし、敏達帝の治世14年間は辛酸の日々であったが遂に新羅征討の派兵はできなかった
 592年敏達帝の皇后が即位し、推古帝となった。600年新羅に併合された任那で内乱あり、新羅が攻めた。これを好機とばかり、推古帝は任那救援の1万余の新羅征討軍を派兵した。結果新羅軍は降伏した。と、「書記」は書く。新羅と任那が倭国王朝に朝貢してきたと推古紀にあるから、勝利は事実だったろう。しかし、倭軍が任那から帰還すると新羅は再び任那を犯した。推古朝の百済に対する救援指示も百済は聞かず。
 同年、再び新羅討伐の軍議が整い、翌602年2万5000の大軍を皇太子厩戸皇子は、来目皇子に与え「撃新羅征討軍」とした。征討軍は筑紫の嶋郡(志摩郡)に至ったが来目皇子発病で中止。翌年皇子は同地で薨去した。しかし聖徳太子は来目の兄、当摩皇子を征新羅将軍に任じ、播磨に着いた時、妻の舎人姫王明石で薨じたので、又も中止となった。

 磐井の乱は倭王朝の南鮮政策の失敗を突く一方、飛鳥文化に彩られた先進文化に魅了された独善的な百済支援策、新羅敵視策の愚策を即時やめさせようとしたのが発端であった。しかし、倭王朝はこれを聞き入れなかったのである。こうして半島の覇権動乱は、征服王朝と化した新羅の台頭で、一気に激動化して行く。 

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2012年4月 7日 (土)

花々の競い咲き

 先日の強風以後はずっと好天に恵まれ、花々が競い合うように咲いている。
Photo  ハナニラ(花韮)。葉の形や匂いがニラに似ているところから付いた名前だが、ニラではない。動脈硬化予防やがん予防の効能があるという。
Photo_2  ヤエザクラ(八重桜)。牡丹桜とも言われ、ソメイヨシノに次いで咲き始めた。
Photo_3  モモ(桃):毎年花後には必ず実(水蜜桃)を付ける木だが、頂度熟した頃必ずカラスが食べてしまう。 
 

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2012年4月 6日 (金)

青紫色の花

 桜がぼつぼつ散り始め、代って八重桜、桃、梨などが後を埋めるがごとく咲きだした。
Photo  今日は最近多い青紫色の花を取り上げた。
 キランソウ。「キ」は紫の古語で、「ラン」は藍から来た名前だそうで、この茎や葉は平べったく、土にへばりついて居る。従って、花だけが地上に立っている感じである。
 別名「地獄の釜の蓋」という。彼岸の頃、葉や茎が地を覆うところから来た名。
Photo_2  白色フレンチラベンダー。花の頂部に苞があるのが特徴のラベンダーの一種。
 ハーブの女王と云われるそうで、香り・薬用効果を生かして、ポプリやリース、香水などに利用される由。
 苞の色はいろいろあり、これは「アボンビュー」という。
Photo_3  ムスカリー。葡萄様の花だから、別名「グレープヒヤシンス」とも云う。名のムスクは麝香のことで、最近は白やコバルト色の花もあるそうだ。日本には30年前ぐらいから植えられている新しい花である。

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2012年4月 5日 (木)

桜満開!

Photo  一昨日の”爆弾低気圧”に拘わらず花は散らず、今日満開状態である。写真は昨日の香椎宮の桜であるが、今日現在まだ散り始めていない。
Photo_2  :香椎宮内の広場に植わっている桜。樹下では何組かの花見客が宴会?
 :同上、もう蕾がない状況。
Photo_3  :香椎宮楼門を入ったところの枝垂れ桜。ソメイヨシノに比し、遅いようで、蕾が多い。

 多分、今日がピークで、明日辺りから散り始めるだろう。
 彼方此方の桜も、ほぼ同様の状態で、当地では一気に咲いてしまった。結果一気に散ってしまいそうだ。

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2012年4月 4日 (水)

倭国の興亡107: [異説] 欽明朝の真実と以降王朝の架空説

 継体朝(507-531)のあと、継体と手白髪姫(仁賢天皇の娘)の間に生まれた欽明天皇が即位した(在位539-571年)。しかし、、継体が大和磐余宮に入った時既に75歳であったことなどから、この両者の父子関係は疑わしいとする論が多い。
 書記・継体紀23条では、金官伽耶(駕洛)の実質的王・仇衡(クヒョン)王は、駕洛国が滅びる3年前(529年)に倭国に渡り、その同月に帰国したとなっている。その3年後の532年に駕洛国は滅び、仇衡王の弟仇亥王を新羅の国都・慶州にに行かせ、降伏している(「三国遺事」)。降伏した仇亥王は本国をそのまま色邑(荘園)として賜り「上等」の位に就いた(「三国史記」)。
107_2  しかし、仇衡王が亡くなったとの記事はなく、唯「位を失い国を去った」とあるだけでである。そのまま倭国に残ったか、或いは一旦帰国後、3年後再渡来した(「書記」)とし考えられないという。即ち、仇衡が蘇我氏に迎えられ倭国に新王朝を開いて、欽明天皇になり変わったとするものである。この様に考えることにより、「書記・欽明記」の記事が半島関係で満たされている意味が了解され易くなるともいう。
 駕洛国の滅亡と欽明の即位が同年であること、欽明の宮号「金刺宮」が加羅の金海の宮も表し、又書記・継体紀に「百済本記によると天皇と太子・皇子が俱死す」とある記事もこれら倭の異変を伝えたと見れる
 従って、欽明にとって本国の任那再興は終生の念願であり、再建の詔勅だけでも541年~571年の間に8回に及んでいることの理由がよく判る。

 このような状況下、当時の政界を支配していたのは蘇我氏であり、彼を支えたのは加羅系(伽耶系)の諸豪族、葛城・平群・巨勢と5世紀中葉に渡来した東漢族達であって、反任那・加羅的政策の継体朝とは対立した。
 このような政治情勢を反映した「日本書紀」の記述は殆ど信用できず、敏達~皇極の6代の天皇(大王)は全て架空のものであり、本当は「蘇我馬子・蝦夷・入鹿こそ大王であった」とする見解がある。この蘇我一族=大王説は、多くの史学家が唱えるもので、よしんば敏達以下の天皇が存在したとしても、全くの傀儡で、実権は蘇我氏が掌握したことは間違いがない。
 また17条憲法や大化改新による諸制度の改新は殆どが蘇我氏の施策であった事は多くの学者の見解が一致するところである。

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2012年4月 2日 (月)

陽春、花々一気に咲く その3

 福岡では、今日桜は満開と気象台が発表した。蕾から、満開までこんなに早いのは初めての気がする。その他の花も一気に開いているので紹介する。
Photo  :トサミズキ(土佐水木)。これは早春を告げる花と云われる。まず花ばかりが沢山咲き、散り始めると葉が出る。葉も綺麗で1年中楽しめるので庭木とされる。トサミズキは高知(土佐)固有の木だが、似たのに日向水木、伊予水木がある。花が下向き、米国ではゴールデンベルと呼ぶ。
Photo_2  シキミ(樒)。仏事に用いるシキビだが、花は余りご存じないのでは? 実は毒を持ち、”悪しき”実からシキミの名がついた。香気が強く、清めるとして、又消臭の意味もあり、更に弘法大師が青蓮華の代用にしたことから仏事に使われると云う。尚、愛宕神社(京都)で榊に代り樒を使う
Photo_3  ムラサキケマン(紫華鬘)。別名藪華鬘。花は白や薄紫もあり、黄色はキケマンという。これは我が家の庭の雑草に混じり咲いたもの。此れも毒を持ち、食すると嘔吐、呼吸困難、心臓麻痺を起す。実は豆に似た鞘を付け、触ると音をたててはじけ、種をまき散らすそうだ。 

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2012年4月 1日 (日)

陽春、花々一気に咲く その2

 此頃の陽気に種々の花々が一気に咲き始めたので、福岡の花便りを連載する。
Photo  サクラ(ソメイヨシノ)。昨日現在の近所の公園の桜です。あと三日ほどで満開か。桜は600種類もあるそうで、ソメイヨシノは明治以降に全国的に広がったそうだ。(吉野は山桜)。桜は花の寿命は短いが、樹木の寿命は長く、明治に作った桜並木が健在の所も多い。
Photo_2  ベニスモモ(紅李)。焼き物の窯元の庭で八本ほど固まって満開状態だった。桜かと思ってカメラを向けたら、この家の主人がこれは紅李と教えてくれた。小さな実(桃)が成り香りがいいが、食べませんとのこと。紅色の葉を付けるところから来た名前のようだ。
Photo_3  レンギョウ(連翹)。中国から伝わった花だが、中国での連翹はオトギリソウで、これは誤った名が伝わった由、蔓性で垂れた枝に根が付き広がるそうだ。枝は竹のように中空で、『連翹空木(ウツギ)』とも言われる。果実は解熱剤、消炎剤の漢方薬になる由。

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