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2012年3月 5日 (月)

倭国の興亡100: 仏教伝来

 仏教が中国に伝わったのは紀元前後。4世紀になり鳩摩羅什(クマラジュウ)が主要な大乗経典を訳出し、中国の大乗仏教の方向が定まった。4世紀後半には高句麗に伝わり、百済にも伝わったと云われるが、本格的に伝わったのは6世紀に入り、南朝の梁の仏教が伝えられてからからである。(下図は仏教伝播ルート
100  倭国へは欽明天皇のとき、百済から伝えられた。元興寺縁起上宮聖徳法王帝説では538年に聖明王から仏像や経典が伝えられたとする。一方、書記には552年に同じく聖明王が仏教・経典を伝えたとある。538年が宣化朝で、552年(釈迦入滅より1500年目を選んだ?)は欽明朝であることが「二朝対立説の根拠」ともなっている。どちらが正しいかは不明であるが、百済から倭国へは、半島争乱への救援要請に対する見返りとして、五経博士、易博士、医博士、暦博士などと共に南朝系の仏教が伝えられた。勿論、民間ルートではもっと早くから、渡来人達と共に入来していた

 仏教の受容を巡って、倭王権・列島では論争が巻き起こり政治問題となった。
 書記によると、欽明天皇は群臣に受容の是非を問うた。蘇我稲目は「西蕃諸国(朝鮮諸国)は挙って礼拝しています。倭国だけが拒絶は出来ない」と答え、物部尾輿や中臣鎌足は「我が国王が蕃神(外国の神)を礼拝されると、きっと国つ神の怒りを受けましょう」と反対した。崇仏論争の始まりである。
 結局
受入熱望の稲目にのみ個人的に信仰することが許された。ここでは、仏を蕃神としている、即ち倭国にとっては信仰の対象はあくまで「神」であるから、釈迦を神としたのである。本来の仏教が個人の解説を主題としたのに対し、当時の人々が仏教に求めたのは、治病延命など現世利益と死者の供養であった。その後、教義内容も理解され、独自の宗教の立場を確立し、日本的に在来の神祇信仰と併存し、融合した。
 も一つ特徴的なのは、仏教受容が支配層の主導によって進められたことである。初期の仏教は真っ先に蘇我氏に受容され、あと王家や氏ごとに受容され、氏寺を建立した。しかし、後には氏寺も次第に官寺化され、寺院も僧侶も、国家のために奉仕すべき存在として国家機構の中に組み込まれ、統制されて行く。国家仏教の成立である。仏教の本格的な受容は列島社会を大きく変革してゆくことになる。

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コメント

「倭国の興亡」100回!おめでとうございます!
記念すべき100号は「仏教伝来」についてですね。
日本に仏教が伝わって、1500年なんですね。
民間ルートでも伝えられていたとのことですが、いつの時代も人は救いを求めていたんでしょうか・・・・。
また京都・奈良に行きたくなってきました。

投稿: Y | 2012年3月 7日 (水) 10時48分

この時代の民間ルートによる仏教とは、半島からの渡来人(かなり大勢の人が戦乱に追われ日本に来て帰化し、或いは朝廷で重用されていますが、その人たちが仏教を信仰していた)による伝来で、多分一般庶民には全然関係なかったでしょう。
 庶民に仏教が入るのは、親鸞や法然が民を救うための教えに変換して広めてからでしょうね。

投稿: 山猿 | 2012年3月 8日 (木) 09時02分

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