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2012年3月22日 (木)

倭国の興亡104: 蘇我氏、崇峻天皇を暗殺

 欽明没後、572年敏達が即位したが585年死亡。皇室の主導権を握った敏達の皇后・額田部皇女(敏達の異母兄弟・後の推古天皇)は叔父に当る蘇我馬子と相談し、後継者に堅塩媛の子・橘豊日皇子を立て、用明天皇となる。
104_4  しかし、蘇我氏と対立した物部氏は反発。又欽明の皇子でも馬子の娘・小姉君の子たちの不満は大きかったが、蘇我氏は操縦しにくい小姉系よりも、温厚で協調的な堅塩媛系を尊重した。
 そこで、穴穂部皇子を味方に引入れ、天皇に立て勢力を盛り返そうとした。弟にあたる泊瀬部皇子も初めは穴穂部を支援した。
 馬子と守屋の対立が決定的になった587年、両者がにらみ合いを続ける中、用明天皇が亡くなった。守屋は穴穂部皇子擁立の好機到来とみて兵を挙げた。しかし、馬子は聖徳太子らを味方につけ、穴穂部皇子、物部守屋等を討った。討伐軍には寝返った泊瀬部皇子も名を連ねた(系図参照)。
 同年、泊瀬部皇子は倉梯宮(桜井市)で即位し、崇峻天皇となった。馬子と炊屋媛(推古)は蘇我の血を引き、言いなりになる崇峻を選んだのである。

 崇峻は倭王権の念願である半島・伽耶の復興のため二万の軍を筑紫に送ったり、飛104_3 鳥寺を建立する。一方、蝦夷の国境や、東方諸国・北陸諸国の境の視察など、国内統治にも力を入れた。しかし、その裏には常に大臣・蘇我馬子の影があったので、次第に自分の立場に我慢が出来なくなる。
 592年のこと、崇峻が馬子に批判的な話をしたのを聞いた馬子は、大王を謀って儀式に出席させ、東漢駒に殺害させたのである。そして、モガリの儀式もないまま、その日の内に陵(ミササギ)に葬った。即日埋葬とは異例も甚だしい。蘇我氏の権力が強大であったと同時に、豪族の暗黙の了解もあったと云われる。大臣の大王暗殺は前代未聞の事ではあるが、この当時兄弟或いは親子間での殺戮による皇位奪取が度々起こっている。(図は崇峻陵(赤坂天王山古墳)の石棺

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