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2012年3月10日 (土)

倭国の興亡101: 蘇我・物部の崇仏論争

 崇仏論争が起きたことは、「書記」「元興寺縁起」両書に記載があり、又書記の「或る本」にもあることから、間違いない。そして、物部・中臣両氏が排仏派の中心人物だったことは書記編纂時には周知の事実であった。
 蘇我稲目は欽明から授かった仏像を小墾田(オハリダ)の家に安置し、向原の家を寺として仏道に励んだ。しかし、その後疫病が流行し死者が多く出たので、物部尾輿らが国神の怒りだとし、天皇の許しを得て仏像を廃棄し、伽藍に火を放った。是が最初の「破仏」569年)である。
101  その後もしばらくは仏教信仰は停滞したが、584年家臣の鹿深臣が弥勒の石像を百済からもたらしたのを機に、蘇我馬子が仏教を再興する。高句麗僧・恵便を師として、司馬達等(タット)の娘らを出家させ、馬子の邸宅の東に仏殿を造って、百済からの弥勒石像を安置し法会を行った。すると、舎利が出現し、不思議な霊験を示したという。「書記」は、仏法の初めはここから起こったと特記している。尚、司馬達等6世紀半ば半島から渡来した司馬一族であり、鞍作りを本業としながら、鞍作鳥(止利)のような有名な仏師を輩出し、仏教と深い関わりをもち、蘇我氏とも密接な関係をもった。(図は蘇我馬子の墳墓・石舞台古墳。覆土がなくなり、石室が露出している
 馬子は、翌585年さらに大野丘(明日香村)の北に塔を建て再び大規模な法会を催し塔頂に舎利を納めた。この後も馬子は塔堂を各地に建て、度々大規模な法会を催し、崇仏派個人の域を超えて、本格的になった。
 しかし、仏教は順調に発展するかに見えたが、馬子が発病し仏の祟りとの占いが出た。この時は国中疫病が流行り、死者が多数出た。物部守屋と中臣勝海は疫病の流行は馬子の仏教信仰のせいだと敏達天皇に訴え、天皇も同意して、仏教禁止を命じた。守屋は寺塔を倒し、仏像・仏殿を焼き、僧尼を弾圧した。

 これが2回目の破仏である。ここで注目されるのが。『元興寺縁起』には、この時「破仏」を命じたのは敏達天皇と明記していることである。「書記」ではないから、かえって真相を記したと思われる。敏達天皇は欽明の子たちが、敏達-用明-崇峻-推古と続く大王の中で、唯一蘇我氏の血を引いていない大王である。故に、その立場と「破仏」が無関係とは考えられないと云われる。

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