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2012年3月 1日 (木)

倭国の興亡99: 蘇我氏の台頭と渡来人説

 継体・欽明ちょうにおける蘇我稲目は古い大豪族達との連合体国家を、新しい政治組織に組替え、地方制度を改革し、王権強化を進め、倭王圏内内の最高権力者へと上り詰める。
 蘇我氏の始祖は、武内宿祢(8代孝元天皇の孫)の子・蘇我石川宿祢と伝えられ、以下満智-韓子-高麗(馬背)-稲目となる。そして以降、馬子-蝦夷-入鹿と続き、6世紀から7世紀前半にかけ、朝廷内で最も権勢を誇った豪族である。だがその出自や台頭の背景には謎の部分が多い

 蘇我氏の渡来人説は根強い。その根拠は実在の初代と目される満智(マチ)のときに、百済から渡ってきたと云われる「書記」応神25年条に、百済の権臣木満智が、応神天皇により日本に召された。また「木刕(モクラ)満智」という人名が三国史記(半島史書)・蓋鹵王31年紀(475年条)に登場し、蓋鹵王の命令で王子文周を連れて南に向かった、とある。これが日本に渡った蘇我満智だとするのが渡来説である。2代目韓子、3代目高麗の名も半島との関係を示唆する。だが、稲目以前の系譜上の人物はどれも実在性が乏しいともいう
99  蘇我馬子は、元々葛城の地を自分の出生の地だからと割譲を願ったが、事実稲目は葛城氏の娘を娶り馬子が生まれており、稲目が欽明天皇の後宮に娘二人を入れ、外戚となれたのも、葛城氏の威によると云われる。
 稲目は崇仏派(仏教導入積極派)の威関係で、仏教とのかかわりの深い渡来系の氏族と緊密な関係を持ち、馬子と共に草創期の仏教と深い関わりをもった。蘇我氏は555年から翌年にかけ、吉備国・白猪屯倉、大和国・韓人大身狭屯倉、高麗人小身狭屯倉を設置しているが、いずれもその経営は渡来人が係わっていた。特に渡来人・東漢(ヤマトノアヤ)氏は長年に亘って蘇我氏と密接な関係があり、その私的武力となっている。尚、蘇我氏のヤケは飛鳥周辺の他、河内の石川流域に分布し、ここは渡来人が集住した処で、渡来人との密接な関係を伺わせる。
 蘇我氏は稲目以前から、配下に多数の渡来人を置き、朝廷の財政部門を掌握し、先進的なミヤケ経営をした。これら
渡来人との密接な関係が開明・改革的な思考の源泉となり、王権内の高い政治的な地位を維持したと見られる。尚稲目の崇仏姿勢は、渡来人の人心掌握に利するとの判断もあったであろう。

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