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2012年3月30日 (金)

倭国の興亡106: 女帝・推古擁立と厩戸太子就任

 崇峻天皇暗殺時、次期大王候補には、敏達天皇の長子(欽明の孫)・彦人大兄がいたが、非蘇我系王族であったに対し、蘇我系王族の代表格は厩戸皇子であった。他に炊屋姫(推古)の子の竹田皇子もいたが、587年の物部守屋討伐軍に加わったのを最後に姿を消す(死亡したらしい)。
 従って、慣行から行けば年長の彦人大兄が順当であったが(厩戸は19歳)、実際には592年に炊屋姫が即位し、推古天皇となった。史上初の女帝の出現である。
106  何故推古なのかについては、守屋との抗争時、蘇我氏に敵対した彦人大兄の即位を阻まんとした馬子の苦肉の策との見方がある。炊屋姫は、崇峻の擁立にかかわり、既に重きをなしており、彦人の義理の母に当り欽明の王女という立場で、彦人大兄を差し置いて即位できる唯一の人物でもあった。端的には慣行を捻じ曲げてでも蘇我系王族を守ろうとした馬子の思惑によるものだ。(左図は推古・豊浦宮跡
 更に、推古の後についても彦人はずしが継続すべく、次の大王候補をも準備した。蘇我系有力王族・厩戸皇子を「皇太子」格とするため、それに準ずるワカミタフリ(太子)という地位につけたのである。これで彦人大兄は永久に大王位から遠ざけられたのである。
106_2  厩戸の太子就任は、隋書・倭国伝や唐代の『翰苑』にも「倭国の大王の長子をワカミタフリと称す」と記している。(左図は若草伽藍(法隆寺)跡
 607年には壬生部を設定した。壬生部とは有力皇子の生活費に充てるための名代・子代に代って設けられた部であり、この壬生部は厩戸皇子に帰属し、死後も上宮王家(厩戸王家)に伝領された。ワカミタフリという特別な政治的地位の経済的裏付けであった。
 また厩戸皇子は馬子の娘・刀自古郎女を妃に迎えているが、当然馬子が厩戸またはその子の即位を見込んでの事であろう。厩戸の子・山背大兄王が「大兄」と呼ばれ、有力な大王候補となることも厩戸の政治的地位を抜きには説明しがたい。推古朝は、女帝のもとで厩戸皇子と蘇我馬子の共治体制が採られた。 

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