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2012年3月26日 (月)

倭国の興亡105: 聖徳太子の真実

 聖徳太子(厩戸皇子)は574年生まれた。父の用明天皇は欽明天皇と堅塩媛(馬子の娘)の子であり、母の穴穂部間人皇女は矢張り欽明天皇と小姉君(馬子の娘)の娘である。つまり太子の父母は共に馬子の甥と姪である。父・用明の即位と共に、嫡系の長子として将来の大王候補となった。
 「聖徳太子」死後の諡であり、本名は厩戸皇子である。当初上宮に住んでいたので上宮皇子とも称された。書記に厩で生まれたとか、生まれてすぐ話せた、或いは成人しては一度に10人の話を聞き分けたなどの話がある。また豊聡耳皇子の名は仏典からの尊称であるが、これも非常に聡明であったとの説話の因になった。血筋家柄から、非常に有力な大王位候補の皇子であった
105  「書記」は厩戸皇子=聖徳太子として記載しているが、これは「嘘」であるとする説が非常に多い。推古朝には十七条の憲法制定、冠位十二階の制定、遣隋使の派遣と事蹟が多いが、これを摂政として推古天皇に仕えた聖徳太子の事蹟とはどうしても考えられない。憲法17条は偽作説が多いし、冠位12階や遣隋使は、確かに聖徳太子が行ったという根拠がないのである。蘇我馬子の施策との説はある。

 大山誠一氏の「聖徳太子不在論」がある。氏は多くの太子資料を分析の上、提起したもので、厩戸皇子は確かに蘇我系の有力な皇子として実在した。だが、聖徳太子は「書記」が編纂の中で生み出した架空の聖人だとする。故に、17条憲法はじめ太子の事蹟はないし、「皇太子」という地位も否定している。(図は聖徳太子二皇子像
 この論は一部真実を突いているものの、「厩戸王とは太子は別人」論のため「太子信仰」成立を「書記」成立時点まで引き下げるのには無理がある。書記より古い古事記や天寿国繍帳銘、法起寺塔露盤銘にも、「豊聡耳命」「上徳太子聖徳皇」などの尊称が厩戸皇子に用いられているから、太子信仰も「書記」以前に成立していたからだ。
 尚、聖徳太子が送検した法隆寺670年全焼した。当時の塔の心礎跡など発掘されているが、現在の伽藍は7世紀後半から8世紀初頭再建されたものである。その頃、太子の神格化が進み、仏徒間の太子信仰が広がった。書記はその既存の太子像に儒教思想など加味し、聖徳太子像を完成させている。

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コメント

ロドリゲスの日本大文典に倭国年号として聖徳がありますので、聖徳は倭国のモノでした。法隆寺の金石文も倭国のモノでしょう。

投稿: いしやま | 2013年12月28日 (土) 03時16分

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