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2012年3月14日 (水)

倭国の興亡102: 蘇我、物部の対立激化

 585年敏達天皇崩御。その遺体を安置する殯宮で、蘇我馬子と物部守屋が互いの誄(シノビゴト)(弔辞)を嘲笑し合い、対立が深まった。
 この後、欽明の第4子・大兄皇子が即位し、用明天皇となる。用明の母は稲目の娘・堅塩媛(キタシヒメ)だから、その即位は馬子の後押しがあったと思われる。守屋は当然危機意識を深め、欽明妃・小姉君の3男穴穂部皇子の擁立を画策する。

 587年用明天皇は新嘗祭当日、病(痘瘡)になる。用明は重臣を集め、仏教への帰依を表明し、可否を協議させた。天皇自らの崇仏意思表示はこれが初めてだが、用明が蘇我氏の血を引く初の大王であったことによるだろう。
 重臣会議は、崇仏派と排仏派の対立が再燃する。守屋と中臣勝海は用明の仏帰依に反対するが、馬子はそれを支持した。会議の最中、押坂部史毛屎(オシサカベノフヒトケクソ)が会場に来て、こっそり守屋に身の危険を知らせたので、守屋は阿都のヤケ(農業経営地)に引き上げ手勢を集めた。
102  間もなく用明は息を引き取り、馬子は急遽兵を集め、まず守屋と組んだ穴穂部皇子を殺害させた。ついで守屋を討伐すべく、泊瀬部皇子(崇峻)・竹田皇子ら諸皇子と、紀男麻呂・巨瀬比良夫らを率いて兵を挙げた
 守屋は一族の者や奴(ヤケの隷属民)を糾合して馬子軍と戦った。守屋自らも矢を射かけ奮戦した。しかし、迹見赤檮(トミノイチイ)が守屋を射殺すると守屋軍は総崩れとなり敗北した。(図は馬子邸宅跡
 「書記」によれば、馬子方には厩戸皇子も加わり、一時苦戦に落入った時、四天王の木像を彫って、勝利したら必ず四天王のために寺塔を建てると請願し、又馬子も寺塔建立の請願をしたため、ようやく守屋を討てた。そこで乱後、厩戸皇子は摂津国に四天王寺を建立し、守屋の奴の半分とヤケを寺に寄進し、馬子も飛鳥の地に飛鳥寺を建てたという。 但し、四天王寺は飛鳥寺より建立は遅く、これは作り話であり、聖徳太子もこの時14歳の筈で、これも疑問視されている

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