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2012年3月

2012年3月31日 (土)

陽春、花々一気に開く その1

 ここ2、3日の陽気に誘われてか、春の花が一斉に咲き始めた。
Photo  ハクモクレン(白木蓮)。先日まで咲いてなかったハクモクレンが、彼方此方で一気に咲き、今が盛り。この花、陽が当る方の花弁が膨らみ、結果花は北向くという。故に「磁石の木」と云われるそうだ。

Photo_2  コブシ(辛夷)。辛夷は近所では住宅地の街路樹として植わっているだけで、あまり見かけない。又、今は咲始めか花つきも少ない。この木は集合果を付け、それが握りこぶしに似ている事からの名前だそうだ。枝を折ると芳香を放ち、花は香水の原料。木蓮と違い花は全開する。

Photo_5   モクレン(木蓮)。花が紫色なので、シモクレン(紫木蓮)ともいう。ハクモクレンより樹高は低く、花は舌状で長い。上品な芳香を放つ。ハクモクレンより、開花は10日ほど遅いという。写真もまだ蕾である。

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2012年3月30日 (金)

倭国の興亡106: 女帝・推古擁立と厩戸太子就任

 崇峻天皇暗殺時、次期大王候補には、敏達天皇の長子(欽明の孫)・彦人大兄がいたが、非蘇我系王族であったに対し、蘇我系王族の代表格は厩戸皇子であった。他に炊屋姫(推古)の子の竹田皇子もいたが、587年の物部守屋討伐軍に加わったのを最後に姿を消す(死亡したらしい)。
 従って、慣行から行けば年長の彦人大兄が順当であったが(厩戸は19歳)、実際には592年に炊屋姫が即位し、推古天皇となった。史上初の女帝の出現である。
106  何故推古なのかについては、守屋との抗争時、蘇我氏に敵対した彦人大兄の即位を阻まんとした馬子の苦肉の策との見方がある。炊屋姫は、崇峻の擁立にかかわり、既に重きをなしており、彦人の義理の母に当り欽明の王女という立場で、彦人大兄を差し置いて即位できる唯一の人物でもあった。端的には慣行を捻じ曲げてでも蘇我系王族を守ろうとした馬子の思惑によるものだ。(左図は推古・豊浦宮跡
 更に、推古の後についても彦人はずしが継続すべく、次の大王候補をも準備した。蘇我系有力王族・厩戸皇子を「皇太子」格とするため、それに準ずるワカミタフリ(太子)という地位につけたのである。これで彦人大兄は永久に大王位から遠ざけられたのである。
106_2  厩戸の太子就任は、隋書・倭国伝や唐代の『翰苑』にも「倭国の大王の長子をワカミタフリと称す」と記している。(左図は若草伽藍(法隆寺)跡
 607年には壬生部を設定した。壬生部とは有力皇子の生活費に充てるための名代・子代に代って設けられた部であり、この壬生部は厩戸皇子に帰属し、死後も上宮王家(厩戸王家)に伝領された。ワカミタフリという特別な政治的地位の経済的裏付けであった。
 また厩戸皇子は馬子の娘・刀自古郎女を妃に迎えているが、当然馬子が厩戸またはその子の即位を見込んでの事であろう。厩戸の子・山背大兄王が「大兄」と呼ばれ、有力な大王候補となることも厩戸の政治的地位を抜きには説明しがたい。推古朝は、女帝のもとで厩戸皇子と蘇我馬子の共治体制が採られた。 

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2012年3月28日 (水)

木々開花

 ここ福岡では、昨日気象台のサクラが5輪の花を付け、開花宣言が出された。
Photo  この2,3日暖かく、急に木々が花を付け始めた。
 ミモザアカシヤ。ギンヨウアカシヤ或いはフサアカシヤとも呼ぶ。熱、温帯の植物で、関東以北にはないそうだが如何なものか。ネムノキ科の植物だが、一般に、アカシヤ(ニセアカシヤ)と呼ばれるのはハナエンジュでこれとは別種。
Jpg  結構大きな木で、公園や学校に多く、民家には少ない。
 エニシダ。金雀枝と書く。マメ科で、花は豌豆の花に似て、実も似たものを付ける。蜂がとまると、その重みを感知し、花弁が開き授紛を助けるそうで、軽く指で触っても開くのでその様子がみれるという。繁殖力が旺盛でグランドカバーによく使われる由。
Photo_2  ユキヤナギ。どこでもよく見かける花で、日本原産の植物だそうだ。しかし、自生種は減りつつあり、石川県では絶滅危惧種に指定されているという。

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2012年3月26日 (月)

倭国の興亡105: 聖徳太子の真実

 聖徳太子(厩戸皇子)は574年生まれた。父の用明天皇は欽明天皇と堅塩媛(馬子の娘)の子であり、母の穴穂部間人皇女は矢張り欽明天皇と小姉君(馬子の娘)の娘である。つまり太子の父母は共に馬子の甥と姪である。父・用明の即位と共に、嫡系の長子として将来の大王候補となった。
 「聖徳太子」死後の諡であり、本名は厩戸皇子である。当初上宮に住んでいたので上宮皇子とも称された。書記に厩で生まれたとか、生まれてすぐ話せた、或いは成人しては一度に10人の話を聞き分けたなどの話がある。また豊聡耳皇子の名は仏典からの尊称であるが、これも非常に聡明であったとの説話の因になった。血筋家柄から、非常に有力な大王位候補の皇子であった
105  「書記」は厩戸皇子=聖徳太子として記載しているが、これは「嘘」であるとする説が非常に多い。推古朝には十七条の憲法制定、冠位十二階の制定、遣隋使の派遣と事蹟が多いが、これを摂政として推古天皇に仕えた聖徳太子の事蹟とはどうしても考えられない。憲法17条は偽作説が多いし、冠位12階や遣隋使は、確かに聖徳太子が行ったという根拠がないのである。蘇我馬子の施策との説はある。

 大山誠一氏の「聖徳太子不在論」がある。氏は多くの太子資料を分析の上、提起したもので、厩戸皇子は確かに蘇我系の有力な皇子として実在した。だが、聖徳太子は「書記」が編纂の中で生み出した架空の聖人だとする。故に、17条憲法はじめ太子の事蹟はないし、「皇太子」という地位も否定している。(図は聖徳太子二皇子像
 この論は一部真実を突いているものの、「厩戸王とは太子は別人」論のため「太子信仰」成立を「書記」成立時点まで引き下げるのには無理がある。書記より古い古事記や天寿国繍帳銘、法起寺塔露盤銘にも、「豊聡耳命」「上徳太子聖徳皇」などの尊称が厩戸皇子に用いられているから、太子信仰も「書記」以前に成立していたからだ。
 尚、聖徳太子が送検した法隆寺670年全焼した。当時の塔の心礎跡など発掘されているが、現在の伽藍は7世紀後半から8世紀初頭再建されたものである。その頃、太子の神格化が進み、仏徒間の太子信仰が広がった。書記はその既存の太子像に儒教思想など加味し、聖徳太子像を完成させている。

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2012年3月24日 (土)

花々が競い咲き

 桜開花の花だよりが聞こえ始めた。朝夕は寒いものの日中は暖かく、いろんな花木から雑草まで夫々の花を付け始めた。今はハクモクレンも咲いている。
 一方、道端の雑草も可憐な花が開き始めている。
Photo_2   これは、トウダイグサ(燈台草)。
ちょっと見には全体が緑色系で花がついているのが判りにくい。先ず頂部に丸みのあるヘラ型の葉が5枚輪生している。そこから5本の花茎が放射状に伸びて、その先に3個ずつの椀状の苞葉があり、その中に花が咲いているのである。の形が昔の燈火を思わせるところからの名である。美しい花でもないが珍しいものである。
 花の根っこ辺りに丸い実のような子房がお分かり頂けるだろうか。これがコロンコロンと丸い果実で鈴に似ているところから、別名「スズフリバナ」とも云うそうだ。
 汁液には毒性があるのであまり手折ってはいけない由。

Photo_3  これは、ハハコグサ(母子草)。
春の七草のゴギョウ(御形)である。かっては草餅に用いられたというが「母と子が臼で撞かれるのはよくない」として、ヨモギに代ったと云われる。
 葉と茎に白い綿毛が生えており、茎の先端に頭状花房の黄色の花を付ける。庭先に植えている家もある。
 

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2012年3月22日 (木)

倭国の興亡104: 蘇我氏、崇峻天皇を暗殺

 欽明没後、572年敏達が即位したが585年死亡。皇室の主導権を握った敏達の皇后・額田部皇女(敏達の異母兄弟・後の推古天皇)は叔父に当る蘇我馬子と相談し、後継者に堅塩媛の子・橘豊日皇子を立て、用明天皇となる。
104_4  しかし、蘇我氏と対立した物部氏は反発。又欽明の皇子でも馬子の娘・小姉君の子たちの不満は大きかったが、蘇我氏は操縦しにくい小姉系よりも、温厚で協調的な堅塩媛系を尊重した。
 そこで、穴穂部皇子を味方に引入れ、天皇に立て勢力を盛り返そうとした。弟にあたる泊瀬部皇子も初めは穴穂部を支援した。
 馬子と守屋の対立が決定的になった587年、両者がにらみ合いを続ける中、用明天皇が亡くなった。守屋は穴穂部皇子擁立の好機到来とみて兵を挙げた。しかし、馬子は聖徳太子らを味方につけ、穴穂部皇子、物部守屋等を討った。討伐軍には寝返った泊瀬部皇子も名を連ねた(系図参照)。
 同年、泊瀬部皇子は倉梯宮(桜井市)で即位し、崇峻天皇となった。馬子と炊屋媛(推古)は蘇我の血を引き、言いなりになる崇峻を選んだのである。

 崇峻は倭王権の念願である半島・伽耶の復興のため二万の軍を筑紫に送ったり、飛104_3 鳥寺を建立する。一方、蝦夷の国境や、東方諸国・北陸諸国の境の視察など、国内統治にも力を入れた。しかし、その裏には常に大臣・蘇我馬子の影があったので、次第に自分の立場に我慢が出来なくなる。
 592年のこと、崇峻が馬子に批判的な話をしたのを聞いた馬子は、大王を謀って儀式に出席させ、東漢駒に殺害させたのである。そして、モガリの儀式もないまま、その日の内に陵(ミササギ)に葬った。即日埋葬とは異例も甚だしい。蘇我氏の権力が強大であったと同時に、豪族の暗黙の了解もあったと云われる。大臣の大王暗殺は前代未聞の事ではあるが、この当時兄弟或いは親子間での殺戮による皇位奪取が度々起こっている。(図は崇峻陵(赤坂天王山古墳)の石棺

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2012年3月20日 (火)

花々が開き始めた

Photo  梅も散り始め、桜までの間を埋めるが如く、いろんな花木が咲き始めた。
 写真ボケ木瓜と書くが、瓜のような(丸い)実が成るので、「木の瓜」から来た名前である。尤も私はボケの実を見たことがない。温暖地を好み、本州、四国、九州に植栽する。花は赤の他、ピンク、白などもある。
Photo_2  写真ヒイラギナンテン柊南天と書く。南天のような木だが、葉が柊のようで、棘があるのでこう呼ばれる。黄色い花で、実は青い液果が付き秋に熟する。最近はよく門脇に植えている家が多い。ヒイラギ同様、魔除けの意味もあるが、南天(難を転じる)意味もあり、また、棘のため、猫や犬除けにもなる由。
Photo_3  写真ジンチョウゲ沈丁花。2,3月の花が少ないときに咲き、強い芳香を放ち春を告げるので、大方の家が庭に1本植えている。
 香木(沈香)のような匂いと丁子(チョウジ)のような花から来た名前。学名はギリシャ神話の女神から来たDaphne(月桂樹)である。 

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2012年3月18日 (日)

倭国の興亡103: 初の伽藍ー飛鳥寺建立

 崇仏論争を制し、仏教興隆期を迎えた蘇我馬子は倭国初の寺院を建立する。
 588年、倭国の要請に応え、百済から仏舎利・僧侶と共に寺工・鑢盤博士・瓦博士・画工などが来朝した。場所は飛鳥真神原を寺地と決め、飛鳥寺造営事業がスタート。
103_2   590年建築用材の伐採が始まり、592年金堂と回廊の建築に着工。593年百済から来た仏舎利を塔の心礎に納め、心柱を建て、塔の建設が始まる。596年塔が完成。606年鞍作鳥が作った一丈六尺の金銅釈迦如来像(現在の飛鳥大仏)(の写真)が金堂に安置された。この頃、飛鳥寺が完成
 1956年から翌年にかけての寺跡発掘で驚かされたのは、伽藍配置が一塔三金堂形式(塔の東西と前方に配置)で、これは高句麗以外にないので、高句麗の影響を受けた証である。595年高句麗僧・恵慈が渡来し、翌年百済僧・恵聡と共に飛鳥寺に住し、「三宝の棟梁」となっている。
 瓦は我が国の寺院建築には初めての使用であり、百済の瓦とよく似たものが使われ、百済の技術指導をよく物語っている。
103_3  塔の発掘調査で、地下3mの所から地下式の心礎が発見された。心礎には仏舎利を安置する舎利孔が穿たれていた。また、心礎の上方から木箱が発見され、593年に舎利を入れた金銅製の小容器が入っていた。心礎の上面からは、翡翠や瑪瑙の勾玉、管玉、水晶の切子玉、ガラス玉、金環、金銀の延板、他金銅製の馬具類など(下の写真)が1750点余りが出土した。

 初期仏教でが重んじられたのは飛鳥寺以前からである。当時、塔は伽藍の中でも特別な施設で、古墳の埋葬施設にも通じる意味を持っていたと考えられる。それは死者の供養であろう。寺塔は元々釈迦の遺骨(仏舎利)を納め、供養する施設で、高く屹立する寺塔は祖霊の依り代とも観念されたであろう。
 こうして、首長層の祖霊崇拝は、氏寺の中心を占める寺塔へと引き継がれて行った

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2012年3月16日 (金)

春となりぬ

Photo  「お水取り」が過ぎ、明日は彼岸入り。気温も上昇し、道端の雑草も花を付け始めた。
 写真ホトケノザ。これは春の七草のホトケノザ(標準名コオニタビラコ)とは別種のもので食用ではない。道端の雑草に混じり沢山咲いているシソ科の植物。花から蜜が吸えるそうだ。

Photo_2  写真ハナカタバミ(花片喰)。洋名オキザリス・ボーウイ。球根で植えるが日陰でもよく育ち、手間が要らぬせいか最近庭先に植えてる家が多い。花は紫や白もある。

Photo_3  写真フラバソウ。これは余りお目に懸らないだろう。と云うのは花径が3mmほどの小さな花でよく見ないと見つからない。花の形、色はオオイヌノフグリより小さいイヌノフグリにソックリだが、葉や花弁に小さな毛がある。帰化植物で、長崎で発見した外人、フランチェットとサバチェルの両人からとった名前だそうで、九州~山口では見られるがそれ以東では見られないそうだ

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2012年3月14日 (水)

倭国の興亡102: 蘇我、物部の対立激化

 585年敏達天皇崩御。その遺体を安置する殯宮で、蘇我馬子と物部守屋が互いの誄(シノビゴト)(弔辞)を嘲笑し合い、対立が深まった。
 この後、欽明の第4子・大兄皇子が即位し、用明天皇となる。用明の母は稲目の娘・堅塩媛(キタシヒメ)だから、その即位は馬子の後押しがあったと思われる。守屋は当然危機意識を深め、欽明妃・小姉君の3男穴穂部皇子の擁立を画策する。

 587年用明天皇は新嘗祭当日、病(痘瘡)になる。用明は重臣を集め、仏教への帰依を表明し、可否を協議させた。天皇自らの崇仏意思表示はこれが初めてだが、用明が蘇我氏の血を引く初の大王であったことによるだろう。
 重臣会議は、崇仏派と排仏派の対立が再燃する。守屋と中臣勝海は用明の仏帰依に反対するが、馬子はそれを支持した。会議の最中、押坂部史毛屎(オシサカベノフヒトケクソ)が会場に来て、こっそり守屋に身の危険を知らせたので、守屋は阿都のヤケ(農業経営地)に引き上げ手勢を集めた。
102  間もなく用明は息を引き取り、馬子は急遽兵を集め、まず守屋と組んだ穴穂部皇子を殺害させた。ついで守屋を討伐すべく、泊瀬部皇子(崇峻)・竹田皇子ら諸皇子と、紀男麻呂・巨瀬比良夫らを率いて兵を挙げた
 守屋は一族の者や奴(ヤケの隷属民)を糾合して馬子軍と戦った。守屋自らも矢を射かけ奮戦した。しかし、迹見赤檮(トミノイチイ)が守屋を射殺すると守屋軍は総崩れとなり敗北した。(図は馬子邸宅跡
 「書記」によれば、馬子方には厩戸皇子も加わり、一時苦戦に落入った時、四天王の木像を彫って、勝利したら必ず四天王のために寺塔を建てると請願し、又馬子も寺塔建立の請願をしたため、ようやく守屋を討てた。そこで乱後、厩戸皇子は摂津国に四天王寺を建立し、守屋の奴の半分とヤケを寺に寄進し、馬子も飛鳥の地に飛鳥寺を建てたという。 但し、四天王寺は飛鳥寺より建立は遅く、これは作り話であり、聖徳太子もこの時14歳の筈で、これも疑問視されている

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2012年3月12日 (月)

梅満開、そして桜が開花

Photo_2  昨日から寒気が戻り、今日は真冬の気温(最高7℃)とか。奈良東大寺の二月堂の「修二会」(3月1日~14日)と呼ばれる行が行われており、そのクライマックスが今日12日の「お水取り」である。関西ではこれが済めば春になると云われるように、不思議に毎年今頃いつも寒い。
Photo_5  お陰で梅は花が長持ちして、今が花盛りで、いい香りが漂うている。写真枝垂れ梅。まるで柳のような細い枝が枝垂れ、それに沢山花が付いた立派な木である。
 梅は満開ながら、桜はまだ蕾が少し膨らみ始めた状況だが、今日、桜が咲いているのを見つけた
Photo_6  写真である。
 の写真でご覧のとおり、花の向こうには蕾を付けた桜がある。その手前に別の細い若木が伸びて、その細い枝に花が咲いているのである。
 ホントに桜かと近くでよく見たが、花が一か所から2~3個出ているのは桜で、梅ではない。又、幹の樹皮が明らかに桜だと確認で出来た。

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2012年3月10日 (土)

倭国の興亡101: 蘇我・物部の崇仏論争

 崇仏論争が起きたことは、「書記」「元興寺縁起」両書に記載があり、又書記の「或る本」にもあることから、間違いない。そして、物部・中臣両氏が排仏派の中心人物だったことは書記編纂時には周知の事実であった。
 蘇我稲目は欽明から授かった仏像を小墾田(オハリダ)の家に安置し、向原の家を寺として仏道に励んだ。しかし、その後疫病が流行し死者が多く出たので、物部尾輿らが国神の怒りだとし、天皇の許しを得て仏像を廃棄し、伽藍に火を放った。是が最初の「破仏」569年)である。
101  その後もしばらくは仏教信仰は停滞したが、584年家臣の鹿深臣が弥勒の石像を百済からもたらしたのを機に、蘇我馬子が仏教を再興する。高句麗僧・恵便を師として、司馬達等(タット)の娘らを出家させ、馬子の邸宅の東に仏殿を造って、百済からの弥勒石像を安置し法会を行った。すると、舎利が出現し、不思議な霊験を示したという。「書記」は、仏法の初めはここから起こったと特記している。尚、司馬達等6世紀半ば半島から渡来した司馬一族であり、鞍作りを本業としながら、鞍作鳥(止利)のような有名な仏師を輩出し、仏教と深い関わりをもち、蘇我氏とも密接な関係をもった。(図は蘇我馬子の墳墓・石舞台古墳。覆土がなくなり、石室が露出している
 馬子は、翌585年さらに大野丘(明日香村)の北に塔を建て再び大規模な法会を催し塔頂に舎利を納めた。この後も馬子は塔堂を各地に建て、度々大規模な法会を催し、崇仏派個人の域を超えて、本格的になった。
 しかし、仏教は順調に発展するかに見えたが、馬子が発病し仏の祟りとの占いが出た。この時は国中疫病が流行り、死者が多数出た。物部守屋と中臣勝海は疫病の流行は馬子の仏教信仰のせいだと敏達天皇に訴え、天皇も同意して、仏教禁止を命じた。守屋は寺塔を倒し、仏像・仏殿を焼き、僧尼を弾圧した。

 これが2回目の破仏である。ここで注目されるのが。『元興寺縁起』には、この時「破仏」を命じたのは敏達天皇と明記していることである。「書記」ではないから、かえって真相を記したと思われる。敏達天皇は欽明の子たちが、敏達-用明-崇峻-推古と続く大王の中で、唯一蘇我氏の血を引いていない大王である。故に、その立場と「破仏」が無関係とは考えられないと云われる。

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2012年3月 8日 (木)

目につく赤い実

 今、梅が見頃で、盆栽から大木までいろんな梅の花が楽しめる。しかし、それ以外は椿ぐらいで、まだまだ冬枯れの景色が残っている

Photo  そんな中、赤い小さな実がやけに目に付く。特にこの写真のモチの実やタチバナモドキ、南天などが、異常なほどに重たそうに沢山実をつけている。普通なら小鳥たちがたべてしまうが、今年は鳥たちも食べ飽きたか。

 モチ()ノキはここら辺りでは大概の家が庭木として植えている。木(ボク)が太くなると庭木として貫録もあり好まれるようだ。
 この木は硬く、又狂い(変形)が少ないので、そろばん玉、数珠、玩具、版木などに使われる。又、樹皮からは粘質の鳥モチがとれる。昔はこれで、小鳥など捕ったという。

 

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2012年3月 5日 (月)

倭国の興亡100: 仏教伝来

 仏教が中国に伝わったのは紀元前後。4世紀になり鳩摩羅什(クマラジュウ)が主要な大乗経典を訳出し、中国の大乗仏教の方向が定まった。4世紀後半には高句麗に伝わり、百済にも伝わったと云われるが、本格的に伝わったのは6世紀に入り、南朝の梁の仏教が伝えられてからからである。(下図は仏教伝播ルート
100  倭国へは欽明天皇のとき、百済から伝えられた。元興寺縁起上宮聖徳法王帝説では538年に聖明王から仏像や経典が伝えられたとする。一方、書記には552年に同じく聖明王が仏教・経典を伝えたとある。538年が宣化朝で、552年(釈迦入滅より1500年目を選んだ?)は欽明朝であることが「二朝対立説の根拠」ともなっている。どちらが正しいかは不明であるが、百済から倭国へは、半島争乱への救援要請に対する見返りとして、五経博士、易博士、医博士、暦博士などと共に南朝系の仏教が伝えられた。勿論、民間ルートではもっと早くから、渡来人達と共に入来していた

 仏教の受容を巡って、倭王権・列島では論争が巻き起こり政治問題となった。
 書記によると、欽明天皇は群臣に受容の是非を問うた。蘇我稲目は「西蕃諸国(朝鮮諸国)は挙って礼拝しています。倭国だけが拒絶は出来ない」と答え、物部尾輿や中臣鎌足は「我が国王が蕃神(外国の神)を礼拝されると、きっと国つ神の怒りを受けましょう」と反対した。崇仏論争の始まりである。
 結局
受入熱望の稲目にのみ個人的に信仰することが許された。ここでは、仏を蕃神としている、即ち倭国にとっては信仰の対象はあくまで「神」であるから、釈迦を神としたのである。本来の仏教が個人の解説を主題としたのに対し、当時の人々が仏教に求めたのは、治病延命など現世利益と死者の供養であった。その後、教義内容も理解され、独自の宗教の立場を確立し、日本的に在来の神祇信仰と併存し、融合した。
 も一つ特徴的なのは、仏教受容が支配層の主導によって進められたことである。初期の仏教は真っ先に蘇我氏に受容され、あと王家や氏ごとに受容され、氏寺を建立した。しかし、後には氏寺も次第に官寺化され、寺院も僧侶も、国家のために奉仕すべき存在として国家機構の中に組み込まれ、統制されて行く。国家仏教の成立である。仏教の本格的な受容は列島社会を大きく変革してゆくことになる。

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2012年3月 3日 (土)

梅が満開

Photo  このところ、ぐずついた天候が続いていたが、今日は久しぶりにお天道様が顔を出し、気温も上昇し春らしくなった。
 さて梅は咲いたか、と近所の梅を見て歩いた。つい先日まで蕾の多かった梅も、急に花開き、もう満開に近い状態となっている。

Photo_2  それよりも、木の傍によると、梅の香が強く漂い、「わー、梅の香りだー」と云う状態になっている。
 写真Ⅰ紅梅。先ず目についたのが、この真紅の梅。この様に深紅と云えそうな濃い赤色の梅も珍しいが、この木は大きな古木であった。多分丁寧に手入れして居られるのだろう。

Photo_3  写真Ⅱこれも紅。しかし、薄紅から桃色といった感じの花。この木はまだ若い木で、大きく枝を伸ばしていた。
 写真Ⅲ白梅。昔からある白梅で、この木も古木で、大事に育てられた様子の庭木。これは、花と共に、幹に古木の味わいがあるいい木であった。

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2012年3月 1日 (木)

倭国の興亡99: 蘇我氏の台頭と渡来人説

 継体・欽明ちょうにおける蘇我稲目は古い大豪族達との連合体国家を、新しい政治組織に組替え、地方制度を改革し、王権強化を進め、倭王圏内内の最高権力者へと上り詰める。
 蘇我氏の始祖は、武内宿祢(8代孝元天皇の孫)の子・蘇我石川宿祢と伝えられ、以下満智-韓子-高麗(馬背)-稲目となる。そして以降、馬子-蝦夷-入鹿と続き、6世紀から7世紀前半にかけ、朝廷内で最も権勢を誇った豪族である。だがその出自や台頭の背景には謎の部分が多い

 蘇我氏の渡来人説は根強い。その根拠は実在の初代と目される満智(マチ)のときに、百済から渡ってきたと云われる「書記」応神25年条に、百済の権臣木満智が、応神天皇により日本に召された。また「木刕(モクラ)満智」という人名が三国史記(半島史書)・蓋鹵王31年紀(475年条)に登場し、蓋鹵王の命令で王子文周を連れて南に向かった、とある。これが日本に渡った蘇我満智だとするのが渡来説である。2代目韓子、3代目高麗の名も半島との関係を示唆する。だが、稲目以前の系譜上の人物はどれも実在性が乏しいともいう
99  蘇我馬子は、元々葛城の地を自分の出生の地だからと割譲を願ったが、事実稲目は葛城氏の娘を娶り馬子が生まれており、稲目が欽明天皇の後宮に娘二人を入れ、外戚となれたのも、葛城氏の威によると云われる。
 稲目は崇仏派(仏教導入積極派)の威関係で、仏教とのかかわりの深い渡来系の氏族と緊密な関係を持ち、馬子と共に草創期の仏教と深い関わりをもった。蘇我氏は555年から翌年にかけ、吉備国・白猪屯倉、大和国・韓人大身狭屯倉、高麗人小身狭屯倉を設置しているが、いずれもその経営は渡来人が係わっていた。特に渡来人・東漢(ヤマトノアヤ)氏は長年に亘って蘇我氏と密接な関係があり、その私的武力となっている。尚、蘇我氏のヤケは飛鳥周辺の他、河内の石川流域に分布し、ここは渡来人が集住した処で、渡来人との密接な関係を伺わせる。
 蘇我氏は稲目以前から、配下に多数の渡来人を置き、朝廷の財政部門を掌握し、先進的なミヤケ経営をした。これら
渡来人との密接な関係が開明・改革的な思考の源泉となり、王権内の高い政治的な地位を維持したと見られる。尚稲目の崇仏姿勢は、渡来人の人心掌握に利するとの判断もあったであろう。

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