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2012年2月 9日 (木)

倭国の興亡94: [異説] 磐井の乱は倭国とヤマトの激突

 この時代、倭国はどうであったか、書記とは違う観点での見方を紹介する。当時、ヤマト政権が伸長してきて、半島や大陸との窓口だった北部九州を征服統治すべくその機会を模索していた。
 即ち、ヤマト政権は徐々に勢力を伸ばし、東は関東から奥羽南部、北は新潟地方まで統治下に置き、中国、四国、九州方面までその勢力を及ぼしつつあった。
 この時期、中国が容認していた倭国は北部九州を窓口とした倭国であり、半島の伽耶・百済などと人物交流のある北部九州政権は、倭国そのものであり、ヤマト政権を国家とは見ていなかったふしがある
94_2   新羅征討の軍を発すべく継体が物部麁鹿火を討伐軍の将軍とした際、「長門より東をば朕制(カト)らむ。筑紫より西をば汝制れ」と云ったとある。この時(6世紀初)、九州はおろか、中国地方も山口よりもっと東まで大和朝廷の領地ではなかった。西日本の支配者は筑紫君磐井であったという。(図は磐井の墳墓・岩戸山古墳にある石人石馬
 従って、継体は磐井の九州王朝が握っている莫大な利権が喉から手が出る程欲しくてたまらなかった。又、継体が将軍・麁鹿火に言った言葉は「大将は民の司令なり、社稷の存亡、是に於いてか在り。務めよ。恭みて天罰を行へ」となっている。社稷の存亡とは国家の存亡であり、配下である磐井を相手の戦いに用いる言葉ではない。半島から列島の主権者とみられる磐井に対する言い方であり、磐井こそが列島の王者であり、継体は磐井に認定され、近畿を統括していたに過ぎない、という。故に、真実は「継体の反乱」であった。

 さて、戦乱の結末は「遂に磐井を斬りて、果たして彊場(キョウエキ)を定む」とあり、磐井を倒して両国の国境ラインを確定したあるが、反乱を鎮圧したとは書いてない。そして講和後も新しい筑紫君・葛子のもとで、九州王朝は存続したとある。
 尚、「筑後国風土記」(逸文)では磐井は豊前に逃れて、自害したとあり、あとは葛子が継いだとある。
九州王朝がヤマト王朝に完全に乗っ取られたのは、7世紀の終わりから8世紀のはじめだと云われている。私はこの説を支持する。

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