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2012年2月26日 (日)

倭国の興亡98: 前方後円墳の終焉と巨大古墳

 地方にミヤケ・国造・部の制度が成立すると、在地首長の権力は弱体化した。この動きを端的に示すのが、墓制の変化、即ち前方後円墳の衰退・廃絶群集墳の爆発的増加である。
 群集墳とは一定の広さの墓域に、密集する古墳群の事である。その盛行は埋葬が横穴式石室が導入され、6世紀初頭の畿内型横穴式石室は急速に各地に伝播した。石室は遺体を納める玄室とそこに入る羨道からなり、羨道入口は板石などで閉塞するが、再度開けるので追葬が可能である。
 こうして、古墳は
首長墓から家族墓へとその性格を変化させ、古墳造営の階層も増加し、群集墳となったのである。形状は円墳が普通である。
 これは、首長の権力の弱体化により、首長墓の造営に多数の農民の増員が出来なくなったことも原因の一つである。そんな中ごく最近、
最後の巨大前方後円墳欽明陵と判明したのである。
98_2   欽明天皇
571に亡くなり、檜前坂合陵(墳丘長140m)に埋葬されたことになっている。しかし、その規模からは疑わしい。一方、橿原市にある見瀬丸山古墳(写真)は墳丘長は380mで、奈良県最大の前方後円墳である。最近まで円墳と思われていたが、航空写真で前方後円墳と判明し、最近は欽明陵の有力候補となったからである。幕末には天武・持統陵とされたが、「阿不幾乃山陵記」という古記録が発見され、天武・持統陵が野口王墓古墳であることが判明したので、この丸山古墳は陵墓参考地となっていた。
 しかし、その後の調査で、1991年にはテレビが取り上げ、その翌年、宮内庁も石室の実測調査を行い、2基の家形石棺が安置されていたことが分かった。欽明妃である堅塩媛と欽明の2体の棺である。
 畿内では、
6世紀後半には前方後円墳の築造は停止したので、丸山古墳は、畿内ではまさしく”最後の前方後円墳”となったのである。

 欽明天皇は、蘇我氏と太いパイプを持ち、治世32年に及ぶ。倭王権の新たな支配体制が確立した時である。欽明は6世紀の倭王権にとっては偉大な大王であり、欽明の皇子・皇女が相次いで大王位を継承しており、また馬子をはじめ外戚蘇我氏が持てる権力と財力をつぎ込んでの陵墓造営だったのである。

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