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2012年2月 5日 (日)

倭国の興亡93: [異説] 磐井の乱

 磐井の乱には、多くの異論、異説がある。極論は除外し2回ほど紹介しょう。
93  1984年、朝日新聞西部本社主催の「磐井の乱」シンポジュウムが福岡で開催された。講師は山尾幸久・立大教授、田村園澄・九大名誉教授、小田不二雄・北九考古博物館長が参加された講演内容を記した出版物がある。それから要点を抜粋したものを下記する。(は磐井の乱を記した日本書紀
.この反乱は地理的優位性を生かした筑紫の磐井が、これまでの中国・朝鮮などとの自主的外交権をもった九州独自の王権と、内外の行政権を確立するために、築、肥、豊を合せた三ヶ国連合の支持を得て決起した、九州王朝独立の戦いであった。
.磐井が九州の総力を挙げて継体王朝に武力対決するに至ったのは、継体王朝が、一方的に伽耶諸国を犠牲にし、百済のみの支援の軍事的、経済的負担を常に筑紫国をはじめ、豊、肥各国の民衆に強制した事への憤懣の爆発である。
 筑紫国は半島に近い故、百済への援助、兵員の徴収、武器・食糧など一切の軍需物資の調達などで全て筑、肥、豊の民衆の負担であった。
.九州には、古くから中国、半島からの渡来人が多く、4世紀以降戦乱を逃れ渡来した人々であった。その人たちの祖国に対する倭国王朝の半島政策には当然批判的であったゆえに、当然に磐井を支持、支援した。半島情勢を中央より知り尽くしていた磐井は、全面的改善を警告するために立ち上がった、いわば自衛のための戦いでもあった。
.他方、近畿の中央王朝は、これまで地方豪族のある程度の自治権、統治権を容認してきた。そこへ磐井が新羅の通じたこの機会をとらえ、これまでの間接的地方支配から直接的支配へ切り替え、南進政策を強行しようとした。これに反発したのが、筑、肥、豊を筑紫を中心とした地方連合の決起だった。

 以上の諸説から、中央の継体王朝が、磐井を反乱の首謀者に仕立て、王権の国内浸透に邪魔な磐井やその他の豪族を一掃したと見られ、その謀略仕掛け人が百済からの文物贈与外交に組してきた大伴大連金村である。
 継体紀にある「磐井が新羅に通じ賄賂を貰って中央王朝に反乱」というのもおそらく作り上げられた口実である。尚、磐井は麁鹿火に切られて死んだとあるが、「筑後風土記」では豊前に逃れて死んだとあり、多分戦いでは決着つかず、休戦に持込み、磐井軍の油断を突いて謀殺したのではないかと言われている。

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