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2012年2月 1日 (水)

倭国の興亡92: 筑紫君磐井の乱

 古代史における「磐井の乱」は必ず取り上げられ、知らぬ人も居ないだろう。しかし、これほど真相の判らぬ「反乱」も又珍しい。その要因は、磐井その人に関しいくつもの説があり、確定的な論拠がないからである。
 まず、ごく常識的に語られる「磐井の乱」を追ってみよう。この乱は倭王権の支配機構が飛躍的に発展した時期で、地方の国造(クニノミヤッコ)屯倉(ミヤケ)、中央の部(ベ)(ウジ)などの支配機構の根幹が整備された。これらの制度が成立する直接のきっかけが筑紫君磐井の乱だという。大規模な地方豪族反乱の鎮圧を機に、倭王権は地方支配の強化に乗り出したという訳である。

 6世紀前半、半島の情勢は新羅が強大化し、倭国の拠点・伽耶の存亡が危うく、半島での拠点を失いかねない状況に、継体は救援軍を半島に送り込もうとした。しかし、新羅と親密な関係を持ち、且北部九州を抑えている磐井は反対した。
 527年近江毛野臣が6万の軍勢を率い、任那に赴くべく、筑紫に発向したところ、筑紫の国造磐井が反逆。新羅と結んで、磐井に同調した火国(肥前・肥後)及び豊国(豊前・豊後)も支援し、海路を断って、毛野臣の軍勢の進発を遮った。驚いた朝廷は、大伴金村、物部麁鹿火、巨勢男人らに議した上、大連の物部麁鹿火を大将軍とした討伐軍を派遣翌年、筑紫の御井郡で磐井軍と戦闘、磐井が戦死し磐井軍は敗れ、1年余にわたる反乱も鎮圧されたのである。
92  戦後、磐井の子・筑紫君葛子は、粕屋の屯倉を献上して贖罪された。筑後国風土記に磐井の墓の記載があるが、福岡・八女市の岩戸山古墳左の写真)が磐井の墓とされる。
墳長144mで九州最大の前方後円墳であり、東北部隅に方形の区画がある。石人・石楯、石馬など多量の石製品が出土し、風土記記載とも符合する。
 戦後、葛子が献上したとされる屯倉は、信頼できる屯倉設置の最初の記事だとも言われ、且葛子は国造に任命されている。これが、国造による地方支配の走りでもあるとも言われ、これによって、王権の地方支配の強化がなされた。そして、地方豪族の奉仕形態が王宮の直接奉仕から、在地での司を媒介とした奉仕へと変化するのである。

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