« 梅一輪 | トップページ | 冴返る中での木瓜(ボケ) »

2012年2月14日 (火)

倭国の興亡95: [異説] 安閑・宣化朝と欽明朝二王朝並立説

 15年ほど前の高校教科書には、両朝並立説も記載されていたという。
 先ず現在の通論。継体天皇が崩御したのは、527年(古事記)、531年(日本書紀)、534年(書記・分注)と3通りあり、是に対応して次の安閑の即位年531年(書記)、534年(書記・分注)の二通りがあり(在位は2年)、更にその次の宣化の在位4年で(即位535年(書記))、崩御が539年としかわからない。
 その次の欽明帝の即位は、当然539年であるが、安閑・宣化の在位年数6年を差し引くと533年となり、531年と一致しない。この矛盾を解消するために考えられたのが、継体崩御から安閑即位まで2年間の空位があったとする説である。即ち、継体崩御後、安閑・宣化を推す大豪族・大伴金村派と、欽明を推す開明派(豪族を排除し、王権強化)の蘇我氏が対立し、双方譲らず2年間の空位が生じた。是が現在の通論となっている。
95_2  しかし、此れには古くより異論が多く、2朝並立論が近頃(15年前)までは半ば通説であった。即ち、昭和初期、革新的な古代史研究家・喜田貞吉氏、「継体天皇は531年に崩御した。しかし、皇室内に重大な異変が起き(百済本記)、継体崩御以前に、欽明が即位し、その在位は41年に及んだ。しかし、欽明即位を認めぬ一派があり、534年、継体の長子・安閑、ついで宣化が即位し、両朝並立の状態となった。そして、宣化死後に欽明即位を認めた」とした。これを戦後、林屋辰三郎氏『継体・欽明朝内乱説』として発展的に継承した。  即ち、①磐井の乱や半島経営が原因で531年クーデターが発生。継体が没し、欽明が即位。②欽明を認めぬ一派は534年安閑を擁立。二朝並立が数年続く。③安閑の後の宣化の死後、欽明により二朝統一がなった、とする。(図は元興寺伽藍縁起并流記資材帳
 さらに、「元興寺伽藍縁起」や「上宮聖徳法王帝説」などで、欽明が532年即位とする異伝もあるが、現在は、紀年の混乱は書記が依存した複数の「百済王暦」のズレから生じた、というのが定説となって、2朝論は否定されている。

 尚、宣化天応不在説がある。安閑8年在位とすれば2年空位説は不要。書記が安閑紀と宣化紀を合巻としているが、合巻の場合どちらかが架空という。又、両天皇の和風諡号が類似。古事記に崩年干支注記がない宣化は架空。宣化紀の記載内容等々から宣化天皇は実在しなかったという説であり、説得力もある

|

« 梅一輪 | トップページ | 冴返る中での木瓜(ボケ) »

古代史、邪馬台国」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/534272/53980853

この記事へのトラックバック一覧です: 倭国の興亡95: [異説] 安閑・宣化朝と欽明朝二王朝並立説:

« 梅一輪 | トップページ | 冴返る中での木瓜(ボケ) »