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2012年2月

2012年2月28日 (火)

ようやく春めいて

 プロ野球オープン戦も始まり、季節は春に向かって進んでいるが、花の咲き様はやはり遅い。梅の開花は例年に比し、1週間ぐらい遅いのだそうで、今頃ようやく咲き始めている。花の春は、ゆっくり、長い方がいいのかもしれない。

Photo  椿。藪椿は割に早く咲いて、山茶花と共に殆ど散ってしまったが、栽培種の椿は今ごろようやく咲き始めた。まだどの木も蕾が多く、ポツンポツンと花を付けてきた状態。でも、椿は椿でまたいいもので、一斉に花をつけるのが待ち遠しい。

Photo_2  不明花。草花だが、名前が判らない。これは民家の門脇に咲いているのだから、野草ではなさそうだが、名称不明(小生の検索力では出てこない)。同じものを他ではみかけないから、きっと園芸用の珍しい花だと思って載せた。(花弁は4枚)
 花茎は2cm位で、薄青紫系のすがすがしい花だ。名前をご存じの方はお教えください。

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2012年2月26日 (日)

倭国の興亡98: 前方後円墳の終焉と巨大古墳

 地方にミヤケ・国造・部の制度が成立すると、在地首長の権力は弱体化した。この動きを端的に示すのが、墓制の変化、即ち前方後円墳の衰退・廃絶群集墳の爆発的増加である。
 群集墳とは一定の広さの墓域に、密集する古墳群の事である。その盛行は埋葬が横穴式石室が導入され、6世紀初頭の畿内型横穴式石室は急速に各地に伝播した。石室は遺体を納める玄室とそこに入る羨道からなり、羨道入口は板石などで閉塞するが、再度開けるので追葬が可能である。
 こうして、古墳は
首長墓から家族墓へとその性格を変化させ、古墳造営の階層も増加し、群集墳となったのである。形状は円墳が普通である。
 これは、首長の権力の弱体化により、首長墓の造営に多数の農民の増員が出来なくなったことも原因の一つである。そんな中ごく最近、
最後の巨大前方後円墳欽明陵と判明したのである。
98_2   欽明天皇
571に亡くなり、檜前坂合陵(墳丘長140m)に埋葬されたことになっている。しかし、その規模からは疑わしい。一方、橿原市にある見瀬丸山古墳(写真)は墳丘長は380mで、奈良県最大の前方後円墳である。最近まで円墳と思われていたが、航空写真で前方後円墳と判明し、最近は欽明陵の有力候補となったからである。幕末には天武・持統陵とされたが、「阿不幾乃山陵記」という古記録が発見され、天武・持統陵が野口王墓古墳であることが判明したので、この丸山古墳は陵墓参考地となっていた。
 しかし、その後の調査で、1991年にはテレビが取り上げ、その翌年、宮内庁も石室の実測調査を行い、2基の家形石棺が安置されていたことが分かった。欽明妃である堅塩媛と欽明の2体の棺である。
 畿内では、
6世紀後半には前方後円墳の築造は停止したので、丸山古墳は、畿内ではまさしく”最後の前方後円墳”となったのである。

 欽明天皇は、蘇我氏と太いパイプを持ち、治世32年に及ぶ。倭王権の新たな支配体制が確立した時である。欽明は6世紀の倭王権にとっては偉大な大王であり、欽明の皇子・皇女が相次いで大王位を継承しており、また馬子をはじめ外戚蘇我氏が持てる権力と財力をつぎ込んでの陵墓造営だったのである。

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2012年2月24日 (金)

早春の草花

 久しぶりに晴れ上がったので、道端の草花など観察しながら歩いた。
Photo_6  写真1:オオイヌノフグリ。花が殆どない時期なので、あちこちに沢山咲いているこの花はよく目立つ。花径は小さく5㍉程度だが、コバルトブルーの花は綺麗だ。なのに、フグリ(陰嚢)と云う似つかわしくない名前は、別種のイヌフグリに似ているとこから就いた由。
Photo_3 別名は瑠璃唐草星の瞳という相応しい名前がある。花の寿命が1日限りというから余計に可憐に見える。
 写真2:ハコベ春の七草だから、名前はよく知られているが、この花がハコベだとは知らない人が多いのでは? 上のフグリよりまだ小さく花径は5㍉以下なので、その気にならぬと見つからないぐらいの小さな花である。
Photo_4  花弁は白で5弁だが、深く切れているので、10弁に見誤る。
 写真3:ノミノフスマ。この花は上のハコベとそっくり。勿論同じハコベ属。花は同じだが蕚(ガク)がハコベより長いと云われるが、大きく違うのは葉の形で、長い楕円形となりハコベのようなハート型でないこと。又蕾が全然違うことが写真でお判り頂けるだろう。やはり両者違う植物である。
Photo_5  写真4:ナズナ。これも春の七草だが、名前と一致しないのでは? 全くの雑草で、2-6月の間あちこちで生い茂る。この写真はやや小ぶりのものだが普通体長は20-40㌢。所謂ペンペン草といわれるもので、どこにでも生える。故に、「何も生えない」と云う意で「ぺんぺん草も生えない」と云われる所以である。
 

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2012年2月22日 (水)

倭国の興亡97: 中央有力豪族の支配-氏姓制度

 6世紀前半、倭王権の地方支配体制が出来上がり、それが王権に直接仕える中央の有力豪族の在り方を大きく変えた。氏(ウジ)姓(カバネ)の成立である。
 ウジとは、蘇我・物部・大伴などの、主にヤマトとその周辺に拠点を置く中央の氏族集団の事である。同族集団であると同時に、王権と政治的関係を持ち軍事・祭祀・特殊技能に関係するツカサ(官)で、王権の政治組織でもあった。
 ウジは在地に農業経営の拠点であるヤケ(宅)と隷属民であるヤッコ(奴)を保有し、王権への奉仕の見返りである部=カキを所有して経済基盤をもった。カキは国造制による支配機構に組み込まれたので、王権に依存しながら経済基盤を強固にして、土豪的存在から脱皮したのである。
97_2  更に、王権の職務分担の発展を示すのがカバネ(姓)である。カバネはウジのあとにつく臣・連・君・造・直・首(オビト)・史(フヒト)などの称号であり、蘇我臣、物部連などと表され、ウジの王権内での政治的地位を示す。カバネは6世紀初め頃から使用され、当初はツカサに就いた者だけが称したが、ツカサが継承され、特定の職名的称号を継承する傾向が生まれ、やがてウジと一体的に用いられ、父系に継承された。(図は各ウジの本拠地
 6世紀の倭王権の中枢部を構成したのは、だったが、前者蘇我・和珥・平群・巨勢・阿部のように本拠地のヤマトの地名を氏としており、例外は吉備臣・出雲臣ぐらいで、倭王権の同盟メンバーである。後者は王権の内の職務による、大伴氏(=トモを統括)、物部氏(=武人のモノノフ)、中臣氏(=神と人の中ツ臣:祭祀)、土師氏(=埴土(ハニツチ):埴輪つくり、墓陵管理)などである。

 6世紀の倭王権中枢は大王のもとに大臣・大連の執政官が置かれ、重要事項はそれに大夫(マエツキミ)が加わって合議された。大夫とは大王の御前に控え、大王から命令を伝えたり、逆に臣下の申請を大王に取り次いだ。大夫も殆どがヤマトを本拠とする氏族から出ている。
 このように6世紀の段階の倭王権の支配システム中央の職務分掌組織を構成するウジと王権の地方支配機構としてのミヤケ制・国造制・部民制であった

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2012年2月20日 (月)

雪と水

Photo  福岡では珍しく大雪が降った。1昨日昼ごろから降り始め、昨日昼ごろまで”吹雪”という感じで降り続いた。結果、道路で5cm位、草地、屋根などでは10cm位の積雪。写真は我が家の庭の雪。午後には降りやみ、昨日夕刻には可なり溶けた。

 今年の北陸、東北の記録的な積雪と、難渋する除雪作業は大変だろう。また昨年の各地での記録的な集中豪雨も大きな被害をもたらした。海に囲まれ四季ごとに変わる風による降雨・降雪は、日本列島に大きな災害を発生させる。が、一方その豊富な水がもたらす緑が、美しい日本を作り、色んな産業を支えている、とばかり思い込んでいた。

 ところが違う。今世界は”水戦争に突入した”という。先日、北海道・羊蹄山の麓・雪深い山林一帯が中国の企業に買収された。目的は地下水の採取である。
 地球は14億立方㌖が存在する「水の惑星」。だが飲料などに利用できるのはわずかその0.8%という。人口が70億人を超え、経済発展が進み、水不足への不安は高まる。昨年、中国の旱魃もあったように、気象変化の影響も大きい。20世紀は石油戦争だったが、21世紀は水戦争の世紀になると云われる。

 今、世界の水資源量は一人当たり平均8600立法㌖。しかし、フランス、日本、中国、インド、南アフリカは平均量を下回り、日本はその4割3300立法㌖でしかない。国土の3分の2を森林が占め、降水量も多く水には恵まれているようだが、取水には適さない急流河川が多いためだそうである。
 既に条令で、地下水位を保つため、取水量を制限する自治体出始めている。また、国会では超党派の議員連盟が「水環境基本法案」を今国会に提出する。水資源は国家利益だけでなく、地球規模での対策を必要としている

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2012年2月18日 (土)

倭国の興亡96: 倭王権、地方支配を強化

 九州王権・磐井を破り列島のほぼ全域に支配が及ぶようになると、王権はさらなる強化・拡充をめざし、諸制度を改革、整備していった。その背後には大豪族大伴氏と対抗し、行政機構を整え、渡来技術集団と親密な関係を保持した蘇我氏が大きな勢力を持ち始め、政権内部で台頭してきたことが大きな原動力となった。
86  まず始めに、国造による地方支配の強化。従来、在地支配は豪族が行っていた。ところが5世紀から導入された国造(クニノミヤッコ)倭王権のツカサ(官)であり、クニの領域内を定められた枠内で支配する存在となり、一族の子弟を伴(トモ)として出仕させた。国造は倭王権の地方官であり、徴税、徭役労働、兵役など王権のニーズが主務となった。勿論国造は在地支配に必要な行政権・裁判権・軍事権・祭祀権をもって、王権の地方支配を行ったわけである。(は近畿地方の国造・屯倉の分布図)
 次に屯倉(ミヤケ)。これは、朝廷の直轄領を言うが、元々はコメ収納の倉を中心に、田地や耕作民が付属したもので、地方豪族や朝廷からの官人によって経営され、倭王権の経済基盤となった。
96  屯倉は「官家」の文字が使われる場合は国造などの領内における政治的・軍事的拠点としての機能を併せ持った場合が多かった。536年、筑紫に設置された那津官家は、大宰府の前身にあたる施設で、政治的、軍事的拠点の代表的ミヤケだった。他に製塩・鉱山・漁撈を目的のミヤケもあった。(は那津(福岡)官家倉庫群跡)
 最後に部とカキとは大王・王妃・王族・氏族に隷属し生産物の貢納や労役の奉仕を行った集団のことである。部民はすべて王権に帰属した公的な「王民」であると同時に王族氏族の私的に領有する隷属民でもあり、カキ(民、民部、部曲などと記す)とも呼ばれた。

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2012年2月16日 (木)

冴返る中での木瓜(ボケ)

Photo_3    三寒四温と云われるように、寒さが緩み『いよいよ春だ!」と喜んだら、又寒さがぶり返す。丁度今頃のことを言うのだろう。
 週間予報では今日辺り、10℃を超える筈だったがそうはならず、先週に比べりゃ3-4℃高いようだが、昨日までは氷雨が降り続いた。
開き始めた木瓜の蕾。図:咲き始めている木瓜の花
Photo_4  
この様に寒暖を繰り返しながら、徐々に春になってゆくのだが、この感じをピタリと表現する俳句の季語がある。
 掲題の『
冴返る(サエカエル)』である。ようやく暖かくなり始めたかな、と思った途端に寒さが戻るのを表す季語である。「凍返る(イテカエル)」ともいう。
 同様に寒さが戻るが、やや時期がずれる「寒の戻り」を『
余寒(ヨカン)』といい、まだ寒さが残っているという感じである。
 更に遅く、春に寒が戻る場合には『
春寒(ハルサム)』という。もう春なのにまだ寒いという感じで、同様の季語に「春寒し」「寒き春」「春寒(シュンカン)」が使われる。

 では、夫々の季節の著名句を揚げておきます。
冴返る冴返る港の朝に別れけり 川端康成
 
寒さが戻った早朝の張りつめた空気の中での別れを詠ったものである。
余寒鎌倉を驚かしたる余寒あり 高浜虚子
 
鎌倉は温暖な地域であるが、冬の快晴の早朝は相当冷え込むことがある。
春寒春寒や郊行返す亭を得たり 楠目燈黄子(トウオウシ)
 句を作るべく郊外吟行を試みたが、冬の名残の寒い景色で一句の収穫もなく引き返す途中、思いがけない古い亭が立っていた。辺りの景色もよく、そこで小休止して2、3句まとまった。「郊行」や「亭を得る」の造語も面白いの評がある。

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2012年2月14日 (火)

倭国の興亡95: [異説] 安閑・宣化朝と欽明朝二王朝並立説

 15年ほど前の高校教科書には、両朝並立説も記載されていたという。
 先ず現在の通論。継体天皇が崩御したのは、527年(古事記)、531年(日本書紀)、534年(書記・分注)と3通りあり、是に対応して次の安閑の即位年531年(書記)、534年(書記・分注)の二通りがあり(在位は2年)、更にその次の宣化の在位4年で(即位535年(書記))、崩御が539年としかわからない。
 その次の欽明帝の即位は、当然539年であるが、安閑・宣化の在位年数6年を差し引くと533年となり、531年と一致しない。この矛盾を解消するために考えられたのが、継体崩御から安閑即位まで2年間の空位があったとする説である。即ち、継体崩御後、安閑・宣化を推す大豪族・大伴金村派と、欽明を推す開明派(豪族を排除し、王権強化)の蘇我氏が対立し、双方譲らず2年間の空位が生じた。是が現在の通論となっている。
95_2  しかし、此れには古くより異論が多く、2朝並立論が近頃(15年前)までは半ば通説であった。即ち、昭和初期、革新的な古代史研究家・喜田貞吉氏、「継体天皇は531年に崩御した。しかし、皇室内に重大な異変が起き(百済本記)、継体崩御以前に、欽明が即位し、その在位は41年に及んだ。しかし、欽明即位を認めぬ一派があり、534年、継体の長子・安閑、ついで宣化が即位し、両朝並立の状態となった。そして、宣化死後に欽明即位を認めた」とした。これを戦後、林屋辰三郎氏『継体・欽明朝内乱説』として発展的に継承した。  即ち、①磐井の乱や半島経営が原因で531年クーデターが発生。継体が没し、欽明が即位。②欽明を認めぬ一派は534年安閑を擁立。二朝並立が数年続く。③安閑の後の宣化の死後、欽明により二朝統一がなった、とする。(図は元興寺伽藍縁起并流記資材帳
 さらに、「元興寺伽藍縁起」や「上宮聖徳法王帝説」などで、欽明が532年即位とする異伝もあるが、現在は、紀年の混乱は書記が依存した複数の「百済王暦」のズレから生じた、というのが定説となって、2朝論は否定されている。

 尚、宣化天応不在説がある。安閑8年在位とすれば2年空位説は不要。書記が安閑紀と宣化紀を合巻としているが、合巻の場合どちらかが架空という。又、両天皇の和風諡号が類似。古事記に崩年干支注記がない宣化は架空。宣化紀の記載内容等々から宣化天皇は実在しなかったという説であり、説得力もある

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2012年2月11日 (土)

梅一輪

   梅一輪いちりんほどのあたたかさ   服部嵐雪
 
梅の句では最高傑作との定評のある句である。丁度今頃の時期の句である。
Photo  
嵐雪は蕉門十哲(芭蕉門下の優れた10人の俳人)の一人。因みに、師匠の芭蕉には「梅が香にのっと日の出る山路かな」などの句がある。
Photo_4  
掲句のように、この時期、梅は寒さの中で一輪一輪と咲き始める。私がこのブログで1月30日に紹介した梅の蕾を時々見に行くが、このところの寒さで梅の木も縮み込んで仕舞ったか、蕾は一向に動いていないようだ。
  それでも、若木はぼつぼつ花を開き始めている。この紅白の梅たちも、夫々若木でその枝先にはちらほらと花を付け始めていた。写真一輪の紅梅:まだ咲かぬ白梅の蕾:紅梅だが桃色の梅

Photo_3  来週は寒が緩むとの天気予報だが、大いに期待して今しばらく我慢をしよう。しかしながら、昨日の長期予報では、今期は冬の時期が昨年に比し、約1ヶ月遅れているようで、この寒さもこれからが本格的な寒さで、あと1ヶ月は続くと報じていた。
 北陸や東北の積雪は大変なもので、家屋の倒壊や、雪下ろしで人命が失われている。政府は除雪救援隊派遣を検討すべきではないだろうか。

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2012年2月 9日 (木)

倭国の興亡94: [異説] 磐井の乱は倭国とヤマトの激突

 この時代、倭国はどうであったか、書記とは違う観点での見方を紹介する。当時、ヤマト政権が伸長してきて、半島や大陸との窓口だった北部九州を征服統治すべくその機会を模索していた。
 即ち、ヤマト政権は徐々に勢力を伸ばし、東は関東から奥羽南部、北は新潟地方まで統治下に置き、中国、四国、九州方面までその勢力を及ぼしつつあった。
 この時期、中国が容認していた倭国は北部九州を窓口とした倭国であり、半島の伽耶・百済などと人物交流のある北部九州政権は、倭国そのものであり、ヤマト政権を国家とは見ていなかったふしがある
94_2   新羅征討の軍を発すべく継体が物部麁鹿火を討伐軍の将軍とした際、「長門より東をば朕制(カト)らむ。筑紫より西をば汝制れ」と云ったとある。この時(6世紀初)、九州はおろか、中国地方も山口よりもっと東まで大和朝廷の領地ではなかった。西日本の支配者は筑紫君磐井であったという。(図は磐井の墳墓・岩戸山古墳にある石人石馬
 従って、継体は磐井の九州王朝が握っている莫大な利権が喉から手が出る程欲しくてたまらなかった。又、継体が将軍・麁鹿火に言った言葉は「大将は民の司令なり、社稷の存亡、是に於いてか在り。務めよ。恭みて天罰を行へ」となっている。社稷の存亡とは国家の存亡であり、配下である磐井を相手の戦いに用いる言葉ではない。半島から列島の主権者とみられる磐井に対する言い方であり、磐井こそが列島の王者であり、継体は磐井に認定され、近畿を統括していたに過ぎない、という。故に、真実は「継体の反乱」であった。

 さて、戦乱の結末は「遂に磐井を斬りて、果たして彊場(キョウエキ)を定む」とあり、磐井を倒して両国の国境ラインを確定したあるが、反乱を鎮圧したとは書いてない。そして講和後も新しい筑紫君・葛子のもとで、九州王朝は存続したとある。
 尚、「筑後国風土記」(逸文)では磐井は豊前に逃れて、自害したとあり、あとは葛子が継いだとある。
九州王朝がヤマト王朝に完全に乗っ取られたのは、7世紀の終わりから8世紀のはじめだと云われている。私はこの説を支持する。

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2012年2月 7日 (火)

春の風

 立春を過ぎると、気温は未だ低くても、なんとなく春めいてくるから不思議だ。
Photo  晴れ間もあって、少し足を延ばし、多々良川河口に近い辺りまで歩いた。この辺り、以前は川岸には桜が植わって、花咲く頃は風情があった。しかし、今は護岸工事に伴い、全部切り倒され、歩道が整備された河畔公園に変わってしまっている。 だから、子供連れや暇人たちの散歩やウオーキングの場所となっている。
Photo_2 海猫乱舞中には大きな餌箱を持ってきて、餌をまいている人がいるので、写真のように河口の海猫たち一斉に寄ってきて、餌を取り合っている。随分慣れているのか、人のすぐそばまで寄ってくる。
 餌を横取りの鴨。海猫のすきを狙って鴨たちが寄ってくる。別に喧嘩するわけでなく共に分け合って食べるが、何故かこの写真、双方反対の方向を向いている。やはり互いに警戒心があるのか。

Photo_3  鴨の艦隊。河の鴨と打って変わって、池の鴨は非常に用心深く、カメラを向けた途端、一斉に逃げ出した。まるで艦隊が航跡をひく如く、一直線に逃げてゆく。全く可愛げのない奴らだ。

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2012年2月 5日 (日)

倭国の興亡93: [異説] 磐井の乱

 磐井の乱には、多くの異論、異説がある。極論は除外し2回ほど紹介しょう。
93  1984年、朝日新聞西部本社主催の「磐井の乱」シンポジュウムが福岡で開催された。講師は山尾幸久・立大教授、田村園澄・九大名誉教授、小田不二雄・北九考古博物館長が参加された講演内容を記した出版物がある。それから要点を抜粋したものを下記する。(は磐井の乱を記した日本書紀
.この反乱は地理的優位性を生かした筑紫の磐井が、これまでの中国・朝鮮などとの自主的外交権をもった九州独自の王権と、内外の行政権を確立するために、築、肥、豊を合せた三ヶ国連合の支持を得て決起した、九州王朝独立の戦いであった。
.磐井が九州の総力を挙げて継体王朝に武力対決するに至ったのは、継体王朝が、一方的に伽耶諸国を犠牲にし、百済のみの支援の軍事的、経済的負担を常に筑紫国をはじめ、豊、肥各国の民衆に強制した事への憤懣の爆発である。
 筑紫国は半島に近い故、百済への援助、兵員の徴収、武器・食糧など一切の軍需物資の調達などで全て筑、肥、豊の民衆の負担であった。
.九州には、古くから中国、半島からの渡来人が多く、4世紀以降戦乱を逃れ渡来した人々であった。その人たちの祖国に対する倭国王朝の半島政策には当然批判的であったゆえに、当然に磐井を支持、支援した。半島情勢を中央より知り尽くしていた磐井は、全面的改善を警告するために立ち上がった、いわば自衛のための戦いでもあった。
.他方、近畿の中央王朝は、これまで地方豪族のある程度の自治権、統治権を容認してきた。そこへ磐井が新羅の通じたこの機会をとらえ、これまでの間接的地方支配から直接的支配へ切り替え、南進政策を強行しようとした。これに反発したのが、筑、肥、豊を筑紫を中心とした地方連合の決起だった。

 以上の諸説から、中央の継体王朝が、磐井を反乱の首謀者に仕立て、王権の国内浸透に邪魔な磐井やその他の豪族を一掃したと見られ、その謀略仕掛け人が百済からの文物贈与外交に組してきた大伴大連金村である。
 継体紀にある「磐井が新羅に通じ賄賂を貰って中央王朝に反乱」というのもおそらく作り上げられた口実である。尚、磐井は麁鹿火に切られて死んだとあるが、「筑後風土記」では豊前に逃れて死んだとあり、多分戦いでは決着つかず、休戦に持込み、磐井軍の油断を突いて謀殺したのではないかと言われている。

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2012年2月 3日 (金)

花と鼻

 今日は節分明日は立春。もう季節は春なのに、この寒さは何としたことか。
 とはいっても、既に木々の芽は膨らみ、開花準備が進んでいる。しかし、春になるのはいいが、又花粉症の季節が来るにはなる。
Photo_2  小生は、時々鼻水が「止めどもなく」出ることがある。時には風邪を引いたように頭がボーとする日もある。耳鼻咽喉科では「アレルギー性鼻炎」と云う病名を頂戴し、薬(飲薬と点鼻薬)も貰っているが、一向に効かない。
 そもそも、鼻水は微細なゴミが肺に入らぬように、鼻腔 内の粘膜を濡らして、これをキャッチし、それを胃に流し込むために出ているのであり、健常者は1.5リットル/日位出ているものです、とのこと。しかし、これが敏感すぎると、ちょっとした刺激で、くしゃみ、鼻水、鼻づまりとなる由。

Photo_3  このくしゃみ、鼻水、鼻づまりの症状は花粉症の症状と全く同じ。但し、症状の頻度や、原因物質が特定されるされる点に違いがあり、体内に抗体が形成されるか否かも違う由。故に同じ症状でも、花粉症であるか否かを耳鼻科は検査して、あなたは鼻炎だが、花粉症ではありませんとの診断をされている。

 学問的にはどうでもいいが、どちらも決定的な治療法がないようだ。そもそも人体の防御機能が鋭すぎるか否か(過敏症)の話だもんね。
写真杉の花。これからぼつぼつ花粉を飛ばす時期。
写真杉花粉の電子顕微鏡写真。イガイガが見るからに恐ろしげである。

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2012年2月 1日 (水)

倭国の興亡92: 筑紫君磐井の乱

 古代史における「磐井の乱」は必ず取り上げられ、知らぬ人も居ないだろう。しかし、これほど真相の判らぬ「反乱」も又珍しい。その要因は、磐井その人に関しいくつもの説があり、確定的な論拠がないからである。
 まず、ごく常識的に語られる「磐井の乱」を追ってみよう。この乱は倭王権の支配機構が飛躍的に発展した時期で、地方の国造(クニノミヤッコ)屯倉(ミヤケ)、中央の部(ベ)(ウジ)などの支配機構の根幹が整備された。これらの制度が成立する直接のきっかけが筑紫君磐井の乱だという。大規模な地方豪族反乱の鎮圧を機に、倭王権は地方支配の強化に乗り出したという訳である。

 6世紀前半、半島の情勢は新羅が強大化し、倭国の拠点・伽耶の存亡が危うく、半島での拠点を失いかねない状況に、継体は救援軍を半島に送り込もうとした。しかし、新羅と親密な関係を持ち、且北部九州を抑えている磐井は反対した。
 527年近江毛野臣が6万の軍勢を率い、任那に赴くべく、筑紫に発向したところ、筑紫の国造磐井が反逆。新羅と結んで、磐井に同調した火国(肥前・肥後)及び豊国(豊前・豊後)も支援し、海路を断って、毛野臣の軍勢の進発を遮った。驚いた朝廷は、大伴金村、物部麁鹿火、巨勢男人らに議した上、大連の物部麁鹿火を大将軍とした討伐軍を派遣翌年、筑紫の御井郡で磐井軍と戦闘、磐井が戦死し磐井軍は敗れ、1年余にわたる反乱も鎮圧されたのである。
92  戦後、磐井の子・筑紫君葛子は、粕屋の屯倉を献上して贖罪された。筑後国風土記に磐井の墓の記載があるが、福岡・八女市の岩戸山古墳左の写真)が磐井の墓とされる。
墳長144mで九州最大の前方後円墳であり、東北部隅に方形の区画がある。石人・石楯、石馬など多量の石製品が出土し、風土記記載とも符合する。
 戦後、葛子が献上したとされる屯倉は、信頼できる屯倉設置の最初の記事だとも言われ、且葛子は国造に任命されている。これが、国造による地方支配の走りでもあるとも言われ、これによって、王権の地方支配の強化がなされた。そして、地方豪族の奉仕形態が王宮の直接奉仕から、在地での司を媒介とした奉仕へと変化するのである。

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