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2012年1月24日 (火)

倭国の興亡90: 任那復興会議と日本府の真偽

 継体期、半島南部(伽耶)の金官国は新羅に併呑され、独立回復策は、継体の死により中断する。しかし、倭王権はあきらめず、欽明即位後、安羅に「日本府」を設置し、百済・伽耶と連携し、任那復興策を再開する。この「任那日本府」は史書では、書記の欽明紀にだけ現れるもので、当時は「日本」の国号は無かった筈で、任那日本府の存在は未だに諸説ある
 書記に「安羅にある諸倭臣」の表現があるように、倭王権から派遣されて、安羅に駐在した使臣集団だろうという説もある。近江毛野の安羅派遣を継承し、一定の兵力も保持したが、その機能は限定的だったとも言われる。従って、伽耶諸国に対する倭王権の軍事・外交全般を担った恒久的機関説は否定されている。
90_2  故に、「日本府」は任那(新羅に併呑された金官・淥己呑・卓淳の三小国)の独立回復を目指す目的で設置されたものである。安羅6世紀初頭伽耶で最有力国だったが、近江毛野が病没した翌年(531年)百済軍が進駐し、新羅も卓淳を支配下として、百済と新羅が安羅の東で直接対峙し、膠着状態に入った。(百済・新羅、南部の伽耶侵攻)
 一方「任那復興」は、百済、倭王権、日本府、伽耶諸国の外交上の共通課題としたが、倭国と同盟関係の百済は、協力するポーズをとりつつ、百済に軍事協力を求める安羅に対し、支配力強めた。日本府の組織は卿(大臣)・臣・執事から構成され、その下に安羅在住の倭系人が採用されていて、安羅や自己の利害を優先させて新羅寄りなので、日本府も安羅と共同歩調をとったという。
 
541年、544年の2度、復興会議の開催は成功した。即ち緩やかながらも倭国が主導する国際社会が形成されていた。このように「任那日本府」は「任那復興」と云う倭王権の当面する外交目標を実現するために、欽明朝初年に安羅に置かれた軍事・外交権を持つ出先機関であったといわれる
 尚、4世紀以来、多くの倭人が半島南部に渡り、当地に居着いた人々がいた。その子孫まで永住し、伽耶諸国の官人として活躍した人々も多い。彼等は「
韓子(カラコ)」と呼ばれ、やがては半島人に同化していった。

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