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2012年1月 3日 (火)

倭国の興亡85: [異説] 継体天皇は百済王の渡来か?

 前回、謎は多いが、継体天皇は応神王朝の血筋を引く皇統であることは定説化したと記したが、未だ解けぬ謎も多い
 大王の父は皆大王であるが、継体は違う(父子継承が断絶した)。大王墓の殆どが河内に集中するのに継体墓だけが摂津(淀川の北側)である。妃は畿内の豪族出身とするが、継体の初めの妃は尾張氏の出自(皇位継承後は畿内の妃と婚姻)である。名前に「嗣」でなく「継」が使われた。前朝までの親加羅路線を変えているから、従来の駕洛国系でない推測されるといわれる。

 この時期古墳も変化し、5世紀大規模古墳が築造されたが、6世紀には前方後円墳は姿を消し始め、大王墓や各地の首長墓は方墳に変化したことが王朝交替を示唆する。又継体が越前から入り、20年もかかって大和・磐余の玉穂に定都したのは、前王朝を支えた畿内の親駕洛国系の豪族葛城・蘇我の支持を受けてないを示している。
85_2  百済本記の倭の天皇及び太子・皇子とがともに亡くなった(「日本天皇及太子・皇子俱崩薨」)とあるは、暗殺されたことではないかとも言われている。また、皇親は4世との定め(大宝律令)にかかわらず、応神の5世の孫・皇親外であるとしたのは、やはり王統断絶を示唆する。記紀がこの系譜を記載しなかったのも、王統断絶を隠すからくりである。
 以上から、継体天皇は百済王統系の征服者であったと見られる。
461年百済・蓋鹵王が倭国王に王弟・昆支を差し出しているが、昆支は16年倭国に滞在し子供5人を倭国で育てた。その長男の東城王は帰国し百済の王位に就いたが、その後斯我君の名で再び倭に戻ったといわれる。
 この東城王が継体天皇であるとする説がある。東城王の名前「牟大」も「オホタ」と読み「オホド」(オホド王=継体)に近い。百済史では死亡したことになっているが、倭国に渡ったと見られるでのである。

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コメント

名古屋からこんばんは。
継体天皇と尾張はご存じのとおりゆかりがあります。

ただ今、名古屋市博物館で
「尾張氏☆志段味(しだみ)古墳群をときかす」展やってます。
でも10日で終わっちゃいます。

中国の騎馬民族「燕国」と同じ三環鈴の展示があります。
つまり、燕国の文化を持ったか、取り上げていたのが
尾張氏です。

よかったら、お出かけ下さい。

投稿: とまと | 2012年6月 1日 (金) 19時28分

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