« 熟れた柑橘 | トップページ | 視覚的先入観 »

2012年1月20日 (金)

倭国の興亡89: 任那四県割譲と金官国滅亡

 6世紀初頭、勢力を持った新羅と、高句麗に攻められ南下する百済は共に東西から伽耶に迫りつつあった。
891_2  書記によれば512年、百済は任那の「馬韓」地域の割譲倭国に要求してきた。朝廷より半島に派遣されていた穂積臣押山は、ここは割譲した方が得策と主張し、大伴金村も賛成して(賄賂を貰ったとの噂もある「四県割譲」が認められた。この割譲は百済の領有を承認し、見返りに中国・南朝の先進文化の供与を期待した協力だった。
 5世紀後半~6世紀にかけて倭国が「四県」のあった全羅南道地域と深い関わりがあった事は古学的にも裏付けされた。即ち、ここから列島特有の前方後円墳が10数基発見されている。時期的にも一致し、穂積押山のような首長クラスの人物が想像以上に多く派遣され、中にはこの地に葬られた人がいた。(上図:前方後円墳・月桂洞)
Photo  百済は「四県割譲」に謝し、倭国に五経博士段楊爾を送ってきた。また、武寧王は大伽耶が己汶(四県の隣)を奪取したと訴え、継体天皇に百済領への復帰を要請してきた(実態は百済が大伽耶の己汶を取ろうととして戦闘の援軍を求めてきた)。515年倭国は物部連が率いる軍隊を派遣したが、敗退した。しかし、翌年百済は己汶を割譲されたことを謝し、五経博士漢高安茂を送ってきた。更に522年、百済は南下し、河口の多沙津も確保した。この後も百済との同盟関係は維持した。(下図:月桂洞内の横穴式石室)

 532年、金官国主・金仇亥が新羅に投降して、金官国は滅亡する。5世紀半ば以降、凋落が目立つとは言え独立した小国であり倭王権の付庸国として「任那」という観念(倭国の植民地的観念)で、政治的には重要であった。倭王権は直ちに安羅に派兵して「任那復興」を画策し、隣国・安羅を救援するため、近江毛野臣が軍を率いて派遣されるが敗北する。金官国の独立回復は進まず、530年継体は毛野に帰還を命じるが対馬で病死する。

|

« 熟れた柑橘 | トップページ | 視覚的先入観 »

古代史、邪馬台国」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/534272/53778706

この記事へのトラックバック一覧です: 倭国の興亡89: 任那四県割譲と金官国滅亡:

« 熟れた柑橘 | トップページ | 視覚的先入観 »