« やっと見つけた藪椿 | トップページ | 梅膨らむ »

2012年1月28日 (土)

倭国の興亡91: 任那の滅亡と「調」の演出

 高句麗と戦いつつも新羅からも漢城を奪われ、百済552年から554年にかけて連年、倭国に救軍を要請してきている。危機的状況の最中、554年聖明王が戦死する。この頃、倭国の軍事協力の見返りとして、百済からは交替で博士や人質が派遣されたり、先進文物が贈られている。
91  574年の救軍要請には、汶休麻耶の代りの質に東城子言を、553年の救軍の代償としては医博士、易博士、暦博士、卜書、種々の薬物などを要求している。翌年も同様の要請に質や諸博士を送っている。「仏教公伝」もこのような関係での先進文化の一つであった。この様に倭国は百済を介して南朝文化を受容した。
 新羅は余勢をかって、伽耶の有力国・大伽耶を総攻撃、562年大伽耶はあっけなく降伏、残る伽耶諸国もすべて併呑され尽くした。これ以前に安羅も滅亡しており倭国の半島の接点は失われ、倭国には大きな挫折となった。(図:安羅国王が眠る古墳群

 倭王権は伽耶滅亡の後も「任那復興」にこだわり続けた571年欽明天皇は「任那復興」を遺言して亡くなった。ついで即位した敏達は意志を受継ぎ575年に新羅に使者を派遣し軍事的圧力をかけた。新羅は多々羅以下4邑(金官国の集落)の調を献上してきた。これが「任那の調(ミツキ)の始まりである。(「調」とは属国が宗主国に対し納める貢物のこと)
 ついで、推古朝から舒明朝にかけて新羅使に伴われ「任那使」が来朝することがしばしばあった。「任那」はとっくに無くなっていたが、倭国との対立を避けるために、執拗な要求に屈し新羅使の他に任那使を仕立て、「任那の調」を肩代わりして納めた。
 645年には旧伽耶諸国の大半を奪取し、新羅に代って、百済使が「任那使」を兼任し、「任那の調」を献上したが、これを最後に「任那の調」は廃止された。

 任那滅亡後も、「任那復興」は倭王権の重要な外交課題であったが。その後は「任那の調」に置き換わり、「任那使」の存在が不可欠であった。即ち、この儀式は倭国の付庸国である「任那」の存在を示そうとしたものである。倭王権が、苦肉の策で編み出した国内向け政治的セレモニーで、そこまでしても「治天下大王」は”海北のミヤケ”任那を従える存在でなければならなかったのである。

|

« やっと見つけた藪椿 | トップページ | 梅膨らむ »

古代史、邪馬台国」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/534272/53842591

この記事へのトラックバック一覧です: 倭国の興亡91: 任那の滅亡と「調」の演出:

« やっと見つけた藪椿 | トップページ | 梅膨らむ »