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2012年1月11日 (水)

倭国の興亡87: 蘇我氏の台頭と欽明天皇

 継体の後、相次いで即位した安閑・宣化及び欽明はいずれも継体の皇子である。安閑・宣化両天皇の母は尾張連の娘・目子媛であった。安閑は535年70歳で亡くなり、宣化は539年73歳で没した。継体が即位した507年には二人とも40歳を過ぎていた
 一方欽明の母仁賢天皇の娘・手白香皇女で、地方豪族の娘である目子媛とは全く身分が違う。欽明の生年は継体即位の2、3年後と見られるので、二人の兄とは身分も年齢も大きく異なっていた。両者の間に確執・対立が生じても不思議ではない。更に、大伴氏安閑・宣化の擁立者蘇我氏欽明の支持者と考え、その背後に大伴・蘇我両氏の政治的対立も想定されるが、それは事実であろう。その裏付けが大伴金村の失脚事件だ。
87  540年、欽明天皇の新羅征伐に関する下問に対し、大連・物部尾輿らは、512年に大伴金村が「任那国4県」の百済への割譲を認めたことを追求した。そのため、金村は住吉の宅に引き籠った。金村の失脚事件である。
 しかし、これは30年前の継体朝の責任追及であり、しかも金村があっさり失脚するということはありえず、別の事件とみられる。大伴金村は、継体朝に引き続き、安閑・宣化朝においても高い政治的地位を保持していたとみられる。

 このような時、欽明は自己の盟友として蘇我稲目を見出し提携を深めた。蘇我氏は宣化即位から大臣となり、欽明朝にもその地位が継続され、さらに稲目は欽明に堅塩媛と小姉君の二人の娘を嫁がせる。前者からは用明・推古両天皇が、後者からは崇峻天皇が生まれる。この時の稲目はまだ新興豪族だから、婚姻形成の主体は欽明の側にあったと見られる。勿論稲目に対する信頼と期待は並々ならぬものであったろう。この欽明ー稲目体制の確立が政敵金村の失脚を招いたの真の原因である。
 更に言えば、多くの渡来人、職能集団を率い、財政を含む朝廷の改革を進める開明的官僚である蘇我一族は、巨大豪族として、「王の中の王」に過ぎない天皇家と並ぶ大伴氏を排除し、豪族連合体の大和朝廷から、天皇家を豪族を超越した国家の絶対的存在になそうとしたのである。

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コメント

記事の内容にあまり関係ないかもしれませんが・・・・。
学生時代には余り気にしたことがなかったのですが、安閑は70歳、宣化は73歳で亡くなったとのこと。この時代は結構寿命が長かったのでしょうか?
信長の辞世の句「人間50年~」のイメージもあるし、何かで昔は食事の問題などで寿命は短かったと読んだ記憶があったので。

投稿: Y | 2012年1月11日 (水) 14時01分

昔のヤンゴトナキ(止事無き)上層階級は結構いい生活をしており、一般平均より長生きだったようですね。なお、この時代にはいろんな暦が混在し、年号によって正確な数字でないことも多いようです。一応統一見解のもとに教科書は書いてあるでしょうが・・・。

投稿: 山猿 | 2012年1月11日 (水) 17時50分

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