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2012年1月

2012年1月30日 (月)

梅膨らむ

Photo  先日からの極寒は緩まず、今週は一段と冷え込む予報だ。こんなに寒くても立春になると蕾が膨らみ始め、2月中~下旬に咲き始めると新聞記事にあったのを思いだし、梅の木を観察しながら歩いた。
 と、見つけた!蕾どころかこれは咲いている!。別に驚くことはないが、最早こんなに咲いているとは思わなかった。多分毎年早く咲く梅だろうと勝手に決め込んだが、さすがに、これ以外には開花している梅は無かったので、やはり珍しいのであろう。

Photo_2  他に見た限り、ようやく蕾が膨らみ始めたのが早い方で、殆ど芽が動いてないのが多い。それが普通だろう。
 。これは毎年みかける神社の紅梅の蕾である。これだと、あと十日もすれば咲くのでないかと思われる。
 。これも同じ場所の白梅の蕾である。どちらかと云うと白梅の方が早く咲くような気がするが、蕾の大きさは変わらない。
Photo_3  あと1か月もすれば多分、ウグイスが花を啄みに来るであろう。

 ところで、梅は分類上、バラ科のサクラ属(Prunus)のウメ(mume)だそうで、学名はPrunus mume だそうである。バラも桜も梅もそれぞれ全く別の植物と思っていたが、同系統の植物とは初めて知った。

 

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2012年1月28日 (土)

倭国の興亡91: 任那の滅亡と「調」の演出

 高句麗と戦いつつも新羅からも漢城を奪われ、百済552年から554年にかけて連年、倭国に救軍を要請してきている。危機的状況の最中、554年聖明王が戦死する。この頃、倭国の軍事協力の見返りとして、百済からは交替で博士や人質が派遣されたり、先進文物が贈られている。
91  574年の救軍要請には、汶休麻耶の代りの質に東城子言を、553年の救軍の代償としては医博士、易博士、暦博士、卜書、種々の薬物などを要求している。翌年も同様の要請に質や諸博士を送っている。「仏教公伝」もこのような関係での先進文化の一つであった。この様に倭国は百済を介して南朝文化を受容した。
 新羅は余勢をかって、伽耶の有力国・大伽耶を総攻撃、562年大伽耶はあっけなく降伏、残る伽耶諸国もすべて併呑され尽くした。これ以前に安羅も滅亡しており倭国の半島の接点は失われ、倭国には大きな挫折となった。(図:安羅国王が眠る古墳群

 倭王権は伽耶滅亡の後も「任那復興」にこだわり続けた571年欽明天皇は「任那復興」を遺言して亡くなった。ついで即位した敏達は意志を受継ぎ575年に新羅に使者を派遣し軍事的圧力をかけた。新羅は多々羅以下4邑(金官国の集落)の調を献上してきた。これが「任那の調(ミツキ)の始まりである。(「調」とは属国が宗主国に対し納める貢物のこと)
 ついで、推古朝から舒明朝にかけて新羅使に伴われ「任那使」が来朝することがしばしばあった。「任那」はとっくに無くなっていたが、倭国との対立を避けるために、執拗な要求に屈し新羅使の他に任那使を仕立て、「任那の調」を肩代わりして納めた。
 645年には旧伽耶諸国の大半を奪取し、新羅に代って、百済使が「任那使」を兼任し、「任那の調」を献上したが、これを最後に「任那の調」は廃止された。

 任那滅亡後も、「任那復興」は倭王権の重要な外交課題であったが。その後は「任那の調」に置き換わり、「任那使」の存在が不可欠であった。即ち、この儀式は倭国の付庸国である「任那」の存在を示そうとしたものである。倭王権が、苦肉の策で編み出した国内向け政治的セレモニーで、そこまでしても「治天下大王」は”海北のミヤケ”任那を従える存在でなければならなかったのである。

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2012年1月26日 (木)

やっと見つけた藪椿

 今頃は遅咲きの山茶花と早咲きの椿が咲き乱れているが、正直云って私には区別がつかない。椿の栽培種が八重のが多く、且色も種々あり、花での区別も全く分からない。(違いは山茶花は花弁が散ってゆくが、椿は花全体が丸ごとボトリと落ちる

Photo  それに比し、昔ながらの藪椿はひっそりと花を付け、花数が少ない故に余計に目を引き付ける。一輪挿しにいれるなら、絶対藪椿である。その藪椿を探して、数日間、あちこち歩いたが見つからず、昨日やっと神社の裏の山裾にこの花を見つけた。やはりいいですねー。
 学名はCamelia japonica。椿は日本固有の特産故、japonicaの名がつく。Cameriaは17世紀にチェコから来ていた宣教師・Kamellがヨーロッパにもたらしたことに因むそうだ。漢字の椿は日本で作られた文字で春に咲く木からできた由。尚中国では椿は栴檀科の「ちゃんちん」をいい、日本の椿を中国では「山茶花」と云うそうだ。

Photo_2  これは香椎宮に取り付けられた「お多福」。2月3日の節分に因んで毎年設置される。何故神社にお多福の面が飾られるのか。多分節分会の豆まきに因んで(お多福豆=ソラマメ)か、福を呼ぶ故か。そもそもお多福は醜女(シコメ)のことである筈だが・・・・。

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2012年1月24日 (火)

倭国の興亡90: 任那復興会議と日本府の真偽

 継体期、半島南部(伽耶)の金官国は新羅に併呑され、独立回復策は、継体の死により中断する。しかし、倭王権はあきらめず、欽明即位後、安羅に「日本府」を設置し、百済・伽耶と連携し、任那復興策を再開する。この「任那日本府」は史書では、書記の欽明紀にだけ現れるもので、当時は「日本」の国号は無かった筈で、任那日本府の存在は未だに諸説ある
 書記に「安羅にある諸倭臣」の表現があるように、倭王権から派遣されて、安羅に駐在した使臣集団だろうという説もある。近江毛野の安羅派遣を継承し、一定の兵力も保持したが、その機能は限定的だったとも言われる。従って、伽耶諸国に対する倭王権の軍事・外交全般を担った恒久的機関説は否定されている。
90_2  故に、「日本府」は任那(新羅に併呑された金官・淥己呑・卓淳の三小国)の独立回復を目指す目的で設置されたものである。安羅6世紀初頭伽耶で最有力国だったが、近江毛野が病没した翌年(531年)百済軍が進駐し、新羅も卓淳を支配下として、百済と新羅が安羅の東で直接対峙し、膠着状態に入った。(百済・新羅、南部の伽耶侵攻)
 一方「任那復興」は、百済、倭王権、日本府、伽耶諸国の外交上の共通課題としたが、倭国と同盟関係の百済は、協力するポーズをとりつつ、百済に軍事協力を求める安羅に対し、支配力強めた。日本府の組織は卿(大臣)・臣・執事から構成され、その下に安羅在住の倭系人が採用されていて、安羅や自己の利害を優先させて新羅寄りなので、日本府も安羅と共同歩調をとったという。
 
541年、544年の2度、復興会議の開催は成功した。即ち緩やかながらも倭国が主導する国際社会が形成されていた。このように「任那日本府」は「任那復興」と云う倭王権の当面する外交目標を実現するために、欽明朝初年に安羅に置かれた軍事・外交権を持つ出先機関であったといわれる
 尚、4世紀以来、多くの倭人が半島南部に渡り、当地に居着いた人々がいた。その子孫まで永住し、伽耶諸国の官人として活躍した人々も多い。彼等は「
韓子(カラコ)」と呼ばれ、やがては半島人に同化していった。

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2012年1月22日 (日)

視覚的先入観

 掲題、「ン?何の事」と思われた方が多いだろう。この様な用語は広辞苑や国語辞典にはない。私の造語である。先入観とは「初めて知った事によって作り上げられた固定観念や見解で、自由な思考を妨げる場合をいう」とある。従って、視覚的先入観は、見た目、外観をもって、その事物を自分の頭の中に作り上げて、固定観念にしてしまっているということを言いたかったのである。簡単に言えば「思い込み」というやつである。
Photo  イントロがやや大げさになったが、左図をご覧いただきたい。見た瞬間大方が、何?と一瞬判らず、アッそうか、普通の地図を逆さにした地図だとお判りになる。
 そしてその次に、エエッ、中国大陸と日本の南西諸島はこんなに近いのオーと距離の近さに驚かれるのではなかろうか。(この地図は毎日新聞が国防問題を論じた「安保のカタチ」というシリーズで掲載したもの)。

 私たちは、小学校から北極を上にして、日本列島を中心にした世界地図で学んできた。だから、南西諸島は日本列島からかなり遠方の南西海上に浮かぶ平和な島々、特に尖閣諸島や先島諸島は可成遠方という印象を強く持って居れるのではないだろうか。
 昨年、中国漁船が日本の領海侵犯をした上海上保安チョウ巡視艇に追突した事件で、初めて尖閣諸島の所在地を認識された方も多いだろう。
 一方、この地図のように、中国から日本を見ておれば、すぐ目と鼻の先の海域は、日本列島から続いて南西諸島(薩南諸島と琉球諸島)がつながり台湾に至っているのがお分かり頂けるだろう。その先の太平洋に出るにも、日本領海域に閉じ込められ容易にでられない。更に、西方は同じくフィリッピン領海域、インドネシヤ領海域が広がり、海に接する広大な国土を持ちながら、他国領海に閉じ込められた閉塞感が非常に強いことは容易に察することができる。

 このように、幼い頃の視覚的先入観或いは固定観念でしか、物ごとを観なかったり考えなないと、大きな間違いを起こすと、この逆さ地図は教えてくれた。
 これからは、グローバルに物事を考え、判断するためには、古い「視覚的先入観」は早く拭い去り3D時代にふさわしい媒体で、多視点での(地理)情報を改めて頭に入力する必要を強く感じておる次第である。

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2012年1月20日 (金)

倭国の興亡89: 任那四県割譲と金官国滅亡

 6世紀初頭、勢力を持った新羅と、高句麗に攻められ南下する百済は共に東西から伽耶に迫りつつあった。
891_2  書記によれば512年、百済は任那の「馬韓」地域の割譲倭国に要求してきた。朝廷より半島に派遣されていた穂積臣押山は、ここは割譲した方が得策と主張し、大伴金村も賛成して(賄賂を貰ったとの噂もある「四県割譲」が認められた。この割譲は百済の領有を承認し、見返りに中国・南朝の先進文化の供与を期待した協力だった。
 5世紀後半~6世紀にかけて倭国が「四県」のあった全羅南道地域と深い関わりがあった事は古学的にも裏付けされた。即ち、ここから列島特有の前方後円墳が10数基発見されている。時期的にも一致し、穂積押山のような首長クラスの人物が想像以上に多く派遣され、中にはこの地に葬られた人がいた。(上図:前方後円墳・月桂洞)
Photo  百済は「四県割譲」に謝し、倭国に五経博士段楊爾を送ってきた。また、武寧王は大伽耶が己汶(四県の隣)を奪取したと訴え、継体天皇に百済領への復帰を要請してきた(実態は百済が大伽耶の己汶を取ろうととして戦闘の援軍を求めてきた)。515年倭国は物部連が率いる軍隊を派遣したが、敗退した。しかし、翌年百済は己汶を割譲されたことを謝し、五経博士漢高安茂を送ってきた。更に522年、百済は南下し、河口の多沙津も確保した。この後も百済との同盟関係は維持した。(下図:月桂洞内の横穴式石室)

 532年、金官国主・金仇亥が新羅に投降して、金官国は滅亡する。5世紀半ば以降、凋落が目立つとは言え独立した小国であり倭王権の付庸国として「任那」という観念(倭国の植民地的観念)で、政治的には重要であった。倭王権は直ちに安羅に派兵して「任那復興」を画策し、隣国・安羅を救援するため、近江毛野臣が軍を率いて派遣されるが敗北する。金官国の独立回復は進まず、530年継体は毛野に帰還を命じるが対馬で病死する。

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2012年1月18日 (水)

熟れた柑橘

 当地では、大概の家の庭には夏柑、柚子、金柑のうちどれか。或いは2種類が植えられている。これら柑橘類は常緑樹であり、背丈もあまり大きくない。そして虫に食われないなど庭木の要件を備えているからではあるが、何よりも棘があり、これが魔除けになると信じられるところから家のお守りとして植えられているのだ。

Photo  この内、夏柑は5月頃が成熟期だが、金柑と柚子は今が成熟期だ。柿と同様、いくつか取り残し、「木守」とするが、昔のように家庭の常備薬や保存食に加工する家も少なくなったのか、収穫せず放置する家もある。

 キンカン金柑)。食用兼薬用として、蜂蜜漬、砂糖漬、金柑酒(焼酎と砂糖)などにする。咳やのどの痛みには効果があり、夏場には清涼飲料としても金柑酒がお勧めだ。

Photo_2  ユズ(柚子)。香辛料や薬味として食卓に載せられることが多い。チュウハイには匂い消しに入れると美味しいし、飲みやすくなる。尚これを原料にワインもあるそうだ。柚子は日本食に昔から使われているので馴染みは多いだろう。

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2012年1月16日 (月)

倭国の興亡88: 倭国を巻き込む半島三国の争乱

 5世紀~6世紀前半島は高句麗、百済、新羅が三つ巴の戦いをし、伽耶地域を足掛かりに深く関わっていた倭国の半島政策は挫折の危機に直面する。
 5世紀後半、半島に対し倭国は軍事的に優位な立場にあったことが、国内の王権強化・確立の大きな要因となった。しかし、6世紀に入ると特筆すべきは新羅の躍進である。法興王(在位514-540)は国家組織を整え国際舞台に復帰。520年、官位制中心の律令制を発布。521年、中国南朝の梁に朝貢。次の真興王(在位540-576)は新羅領土を飛躍的に拡大。552年、高句麗・百済両国の戦闘中に百済が高句麗から奪回した漢城(ソウル)を奪取。西海岸までの領土拡大に成功。この新羅の国威の高揚は、伽耶に深い関わりの倭国に大きな影響を及ぼす。
88  一方、
475年に都を熊津(ユウシン)に移した百済は、6世紀には武寧王(在位501-523)、聖明王(在位523-554)代に、王都は大いに繁栄する。
 この時期、百済は新羅と共同で北の高句麗に立ち向かう。倭国とも提携を深め、479年百済の文斤王が死ぬと、雄略天皇は倭国に来ていた(人質)昆支王(蓋鹵王の弟)の次男
未多王に武器を授け、兵士500人に護衛させ百済に送った。これが後の東城王であると書記にある。鵜のみ出来ないが、両王権の親密さは伺える。
 東城王の後、
武寧王が即位し、中国南朝文化の摂取に努めた。この先進文化が、軍事的援助と引き換えに倭国に供与され、政治的にも重要な役割を果たした。
 尚、武寧王時代に西南端の馬韓地域、その東方の伽耶への進出をはかる。未だ小国の群生する地域であったが、倭国とも連携しながら領域に取り込み始める。これは
伽耶諸国に大きな脅威を与え、戦闘にも発展した。

 武寧王に次いで聖明王が即位する。聖明王の百済は激動期の頂点であり、王も非業の最期を遂げる。538年聖明王は泗沘に遷都し体制を固め、圧迫を受け続けてきた高句麗に対して打って出た。551年旧都漢城を奪回したが、552年新羅に漢城一帯を横取りされる554年、反百済を鮮明にした新羅にたいし、聖明王は自ら軍を率いて新羅・官山城(忠清北道沃川)を攻撃するが戦死する。聖明王は倭国に仏教を伝えた王でもあった。

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2012年1月13日 (金)

海を越える蝶・アサギマダラ

 和歌山県で生まれた小さなチョウが、東シナ海を越えて2500㌔も離れた香港の越冬地に無事到着した。去年の大晦日、片方の翅にマーカーの文字「10/10YSK541西山」、もう片方に「10/20Doi878」があるチョウが香港で見つかったのである。チョウはタテハチョウ科のアサギマダラだった。と、毎日新聞の専門編集委員・金子秀敏氏が昨日のコラム「木語」の記事で報じている。
Photo  このチョウ(同種写真掲載)は黒っぽい翅に浅黄色(薄い青緑色)の模様があるのでこう呼ばれ、前翅約60~100mm位である。そんな小さなチョウがこれほどの長距離を飛翔し、しかも海を越えるとは! と驚き、インターネットで調べると、「アサギマダラは渡り鳥のように、春は日本列島を北上、秋には南下し、東北-関東-東海-紀伊-四国-南西諸島-沖縄-台湾と渡り、越冬する」とある。この習性は1980年代には知られていた。しかし、一体どこまで飛んで越冬するかが一大関心事で、上記のようなマーカーを付けての調査研究が行われてきた。
Photo_2  今回研究団体に問合せがあり、上記記号は昨年10月10日、和歌山県西山YSK氏がマーキングした事がわかった。そしてチョウは10日後四国の高知に居Doi氏が記録し、さらに西に飛んで南西諸島を島伝いに飛び82日後香港・深水湾の自然保護区に居たのである。
 アサギマダラは中国原産ながら、日本のアサギマダラが台湾海峡を渡ることは知られていなかった。多分、長距離海上飛行ではこのアサギマダラが新記録らしく、香港の研究者は「渡りのルートを研究する上で重大発見だ」とコメントしている。(写真は、上記記事とは関係なく、図鑑より拝借)

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2012年1月11日 (水)

倭国の興亡87: 蘇我氏の台頭と欽明天皇

 継体の後、相次いで即位した安閑・宣化及び欽明はいずれも継体の皇子である。安閑・宣化両天皇の母は尾張連の娘・目子媛であった。安閑は535年70歳で亡くなり、宣化は539年73歳で没した。継体が即位した507年には二人とも40歳を過ぎていた
 一方欽明の母仁賢天皇の娘・手白香皇女で、地方豪族の娘である目子媛とは全く身分が違う。欽明の生年は継体即位の2、3年後と見られるので、二人の兄とは身分も年齢も大きく異なっていた。両者の間に確執・対立が生じても不思議ではない。更に、大伴氏安閑・宣化の擁立者蘇我氏欽明の支持者と考え、その背後に大伴・蘇我両氏の政治的対立も想定されるが、それは事実であろう。その裏付けが大伴金村の失脚事件だ。
87  540年、欽明天皇の新羅征伐に関する下問に対し、大連・物部尾輿らは、512年に大伴金村が「任那国4県」の百済への割譲を認めたことを追求した。そのため、金村は住吉の宅に引き籠った。金村の失脚事件である。
 しかし、これは30年前の継体朝の責任追及であり、しかも金村があっさり失脚するということはありえず、別の事件とみられる。大伴金村は、継体朝に引き続き、安閑・宣化朝においても高い政治的地位を保持していたとみられる。

 このような時、欽明は自己の盟友として蘇我稲目を見出し提携を深めた。蘇我氏は宣化即位から大臣となり、欽明朝にもその地位が継続され、さらに稲目は欽明に堅塩媛と小姉君の二人の娘を嫁がせる。前者からは用明・推古両天皇が、後者からは崇峻天皇が生まれる。この時の稲目はまだ新興豪族だから、婚姻形成の主体は欽明の側にあったと見られる。勿論稲目に対する信頼と期待は並々ならぬものであったろう。この欽明ー稲目体制の確立が政敵金村の失脚を招いたの真の原因である。
 更に言えば、多くの渡来人、職能集団を率い、財政を含む朝廷の改革を進める開明的官僚である蘇我一族は、巨大豪族として、「王の中の王」に過ぎない天皇家と並ぶ大伴氏を排除し、豪族連合体の大和朝廷から、天皇家を豪族を超越した国家の絶対的存在になそうとしたのである。

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2012年1月 9日 (月)

厳寒に咲く

 やはり小寒を過ぎると、本物の冬か。天気予報までは気温が上がらず寒い! ウオーキングも耳までかぶる帽子に、ダウンを来て、手袋をした手をポケットに突っ込んで歩いていた。・・・と、町家の日当たりの悪い坪庭にこの花()を見つけた。

Photo  ヒョッとして「ローバイ」ではないかと、近寄ると「葉」がついている。しかし、花(の拡大写真)は確かにローバイ(蝋梅)である。やや日当たりも悪いが、風が当らぬ上に、昨秋の天候不順で落葉しなかったのでは・・・、と思っている。普通は枯れ木に花のみが着く筈だが。

Photo_2  何れにしても、当地では2月にならぬと咲かないが、今年は早いのか。因みにローバイの学名はChimonanthus(チモナンサス)で、Chimon(冬)+authos(花)の合成が語源で「冬の花」の意とのこと。花期は12月末~3月中旬というが、福岡では2~3月によく見掛ける。

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2012年1月 7日 (土)

倭国の興亡86: 継体の大王即位と群臣

 継体天皇は雄略との血統の継続はなく明らかに断絶と云わざるを得ないが、皇統としては雄略朝を継承し、その基盤を強化していったといえる。
 その中で、継体・欽明朝は大王の即位式の整備、中央ではウジの制度、地方では国造や屯倉の制度(地方長官(豪族)と地方政庁・穀倉)、そして包括的な支配体制として部民(ベノタミ)などが形成されていった。(図は近畿地方の国造・屯倉の分布図
86_2  大王即位式は奈良時代以降とはかなり異なったものであった。当時の即位式の次第は次のようであったという。
①群臣がレガリア(王位の象徴:当時は鏡と剣の2種)を新大王に献上する。
②即位式の場に壇を設け、新大王が昇って即位する。
③壇の場所を宮に定める。
④大臣・大連・臣・連・伴造などを任命する

 これらは奈良時代とすべて異なっており群臣による推挙の意味がある。即ち、治天下大王は群臣の推戴を受けなければ、正統性がなかった。実際に継体天皇の擁立には大伴金村が群臣の賛同を得て越に迎えに行ったという。
 即ち大王が自分の意志で後継者を決められなかった。まだ攘夷の慣行がなく、いったん即位すれば、終身大王であった。奈良時代には譲位が一般化して、王権の主体性も強くなったが、この時期には君臣関係が新たな大王のたびに構築されたのである。

 ②は即位式の中心的儀礼である。大王は「事依(ヨ)させ」という神々から地上の支配を付託される必要があった。これは天上の神々の子孫である大王家・天皇家にのみ下された。中国皇帝の基準が「徳」であるのに対し、大王・天皇は血縁だった。だから、代替わり毎に天つ神からの統治権付託を受ける必要があった。
 歴代遷宮で、大王の代替わりごとに新宮を営んだ。
 このように、大王即位式は天つ神と大王の関係、大王と群臣の関係を新たに構築しなおすという儀礼的な意味を持っていた。これにより地位の正当化が行われ、王権は一段と伸長したが、まだ群臣の推戴と神からの統治権付与を必要としていた

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2012年1月 5日 (木)

寒風の中の観葉植物

 改めて、新年おめでとうございます。当地福岡は元旦から昨日まで、悪天候で、神社参拝客も例年に比し相当減っていたようだ。
Photo  今日は久しぶりに晴上がり、歩いてみたが、この寒さでは美しく咲いている花もなく、目についたのはこのような観葉植物が主なものだった。

 。これは花のつぼみか実なのかわからない。勿論名前もわからぬが、何もない中で目立ったので撮ったもの。

Photo_2  。これはよくある蔦類で秋ごろまでは緑色だが冬にはこのように色変わりし、目たつようになる。これも名前が判らない。

Photo_3  。これは今まで目にとめたことがない植物だが、何もない今の時期は美しく見えるから不思議なものだ。

 以上久しぶりのウオーキングでも、冬はやはり花が少ないこと改めて認識した次第。

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2012年1月 3日 (火)

倭国の興亡85: [異説] 継体天皇は百済王の渡来か?

 前回、謎は多いが、継体天皇は応神王朝の血筋を引く皇統であることは定説化したと記したが、未だ解けぬ謎も多い
 大王の父は皆大王であるが、継体は違う(父子継承が断絶した)。大王墓の殆どが河内に集中するのに継体墓だけが摂津(淀川の北側)である。妃は畿内の豪族出身とするが、継体の初めの妃は尾張氏の出自(皇位継承後は畿内の妃と婚姻)である。名前に「嗣」でなく「継」が使われた。前朝までの親加羅路線を変えているから、従来の駕洛国系でない推測されるといわれる。

 この時期古墳も変化し、5世紀大規模古墳が築造されたが、6世紀には前方後円墳は姿を消し始め、大王墓や各地の首長墓は方墳に変化したことが王朝交替を示唆する。又継体が越前から入り、20年もかかって大和・磐余の玉穂に定都したのは、前王朝を支えた畿内の親駕洛国系の豪族葛城・蘇我の支持を受けてないを示している。
85_2  百済本記の倭の天皇及び太子・皇子とがともに亡くなった(「日本天皇及太子・皇子俱崩薨」)とあるは、暗殺されたことではないかとも言われている。また、皇親は4世との定め(大宝律令)にかかわらず、応神の5世の孫・皇親外であるとしたのは、やはり王統断絶を示唆する。記紀がこの系譜を記載しなかったのも、王統断絶を隠すからくりである。
 以上から、継体天皇は百済王統系の征服者であったと見られる。
461年百済・蓋鹵王が倭国王に王弟・昆支を差し出しているが、昆支は16年倭国に滞在し子供5人を倭国で育てた。その長男の東城王は帰国し百済の王位に就いたが、その後斯我君の名で再び倭に戻ったといわれる。
 この東城王が継体天皇であるとする説がある。東城王の名前「牟大」も「オホタ」と読み「オホド」(オホド王=継体)に近い。百済史では死亡したことになっているが、倭国に渡ったと見られるでのである。

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2012年1月 1日 (日)

謹賀新年

Photo  明けましておめでとうございます
本年がよき年でありますようお祈りします

本年も当ブログをご愛顧頂きますようお願い致します

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