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2011年12月25日 (日)

倭国の興亡83: 継体、謎の天皇即位

 5世紀末、雄略天皇崩御のあと、男子の後継者は事実上は皆無の状態で、一時的に擁立された飯豊女帝の崩御の後継者は絶えた。
 当時、最大の権力者であった大伴金村は、葛城氏や平群氏を抑えようと、自ら天皇を擁立しその地位を確立すべく画策した。最初、仲哀の5世の孫・倭彦王を迎えようとしたが、迎えの軍勢を見て恐れ、逃亡してしまった。そこで、越前三国の坂井にいた応神5世の孫・男大迹王(オオドノオウ)を迎えようとし、物部麁鹿火(アラカヒ)も賛成させた。説得を受けて、初めは逡巡した継体(男大迹王)も最後は納得した。

 継体の即位河内国・楠葉宮で行われ、即位5年に山背国・筒木宮に遷し、12年に同国・弟国に遷し、更に20年にようやく大和国・磐余玉穂宮(イワレタマホノミヤ)に遷都しておりその治世の末期にようやく歴代天皇の故地に入った。
 この王朝が前代の天皇とは血の繋がりがないことから、新しい王朝が始まったとする説が強い。応神の5世の孫とは、系譜的な擬制であり、「継体」の「継」は「つぐ」という意味でも、血の繋りがないときの使い方で、血縁があれば「嗣」の字を使う筈という。
 又、河内での即位は大伴氏の勢力圏で、大和国が蘇我・物部氏の勢力圏だから、これを避けるためだったことも、その表れという。
83_2   一方、男大迹王は傍系とされるが、決してマイナーな皇族ではなく、前王朝と同系とする説がある。曾祖父の姉妹允恭天皇の皇后になった安康・雄略の両帝の母なのである(系図参照)。尚、即位後あちこち遷都しているが、即位前から多くの妃がいたが、即位の後は仁賢天皇の手白香皇女を皇后として、正統性も補強している。
 又、系譜については、不明なのではなく記紀が省略しただけで、『続日本記』が引用する上宮記には応神-継体の5代系譜が明記されているという。さらに、地理的に継体の勢力基盤は広範に亘っていたという。又曾祖父の妹・忍坂大中姫(允恭皇妃)が大和にいたので、大和にも繋がりがあった。元々息長氏(天皇の外戚)の末裔の継体が仁賢の娘を妃に迎えたのは、前王朝に婿入りしたと同然で、名実ともに王位継承の正当性を身に着けたとも言われる。

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