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2011年12月21日 (水)

倭国の興亡82: [異説] 幻の女帝飯豊皇女の謎

 記紀によると雄略の後、継体天皇までの間、清寧ー顕宗ー仁賢ー武烈と4人の短命の天皇が続く。その後は後継者が絶え、応神の5世の孫を越前から迎えての異例づくめの継体天皇即位となる。
82_2   雄略で終わる仁徳朝における兄弟相続制は、大王の専制支配者の地位が確立するにつれ、兄弟間の抗争が起きた。また豪族は皇位につく皇族と結びつき、激しい権力抗争を繰り返し、巨大豪族間の勢力争いを引き起こした。
 仁徳の太后(生母)は葛城氏出身で、当初葛城系の勢力は強大であり、仁徳没後、この太后の3皇子が履中・反正・允恭と皇位を順次兄弟相続した。しかし、允恭朝から次第に中央の政権で大きな力を占めつつあった平群氏が大伴氏らと結託して、安康そして雄略を利用し葛城系の皇位継承資格者を次々と排除していった。この結果、葛城勢力は没落し、雄略の後皇位継承者は断絶し、継体の出現まで正当な皇位継承者が存在しない状況に陥った。
 この間隙を埋めるために自ら即位し、皇位を存続させたのが飯豊皇女であった。雄略が没した後、雄略の子・清寧が皇位を継いだとき、その後を継ぐ雄略の従兄弟であり、履中天皇の孫である顕宗・仁賢の兄弟(行方不明だった)が見つけ出された。清寧ははすぐ二人を皇太子及び皇子としたが、清寧没後、二人は譲り合い皇位を継がず、仕方なく姉(叔母との説もある)の飯豊皇女が中継ぎとして政治を執り行ったという。従って記紀以外の平安の史書「扶桑略記」や「水鏡」では「飯豊天皇」と記されている。

 しかし、飯豊皇女の即位は葛城勢力の復活であった(皇女の母が葛城氏の娘)。平群氏は既に滅亡し、雄略の晩年には大伴氏が急速に勢力を伸ばしていた。そこで、大伴氏は葛城政権復活に対抗し、あらゆる手段を用いて天皇にふさわしい皇子を各地に探し、やがて越前三国から継体を得て、飯豊ー葛城系統から皇位奪取に成功した。
 尚、雄略ー飯豊ー継体が実在した天皇系譜であり、雄略ー継体間に記紀が設けている諸天皇は、王朝交替の事実を合理化し、仁徳王朝断絶を正当化したものであるとする説があり、それが実体であろうと思われる。

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