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2011年12月 3日 (土)

倭国の興亡78: 治天下大王(君主)の出現

  5世紀末の倭王権は武王のとき、中国王朝の冊封体制から、王朝交替を機に決別する。以降、倭国及び倭王権の動静は不明となるが、その頃の「大王」に関連する金石文が鉄剣から1978年に発見された。この鉄剣は埼玉県・稲荷山古墳から出土したもので、奈良・元興寺文化財研究所で保存処理をしていて、115文字の金象嵌の銘文が発見されたのだ。
78_4  銘文には、オワケの臣(被葬者)が「杖刀人頭」(親衛隊長)として王権に奉仕し、今に至った事を述べ、「・・・(略)・・・。獲加多支鹵大王、在斯鬼宮寺、吾左治天下、・・・」(ワカタケル大王がシキの宮で天下を治めた時に、大王の統治を補佐し、又この剣を造らせ、王家への奉仕を記した)と記されている。
 この中の獲加多支鹵(ワカタケル)大王が倭王であるとすれば、『書記』にある大泊瀬幼武(オオハツセノワカタケル)、古事記では大長谷若建(オオハツセノワカタケル)の名前である雄略天皇をおいて他に該当者がいない。即ち『宋書』の倭王武と同一人物と見られる。この剣の造られた辛亥年(471年)も、武が宋に朝貢した478年とも矛盾しない。

 他方熊本県・江田船山古墳で1873年(明治8年)に発見された刀剣銘には「治天下○□□歯大王」の冒頭文があり、これは「多遅比瑞歯別天皇(タジヒミズハワケミコト)」(註:○はタジヒと読む獲に似た文字が入る)、即ち反正天皇のこと(書記)とされていたが、上記鉄剣発見で、○=獲、歯=鹵と似ており、治天下獲□□□鹵大王と修正され、これもワカタケル大王と考えられるようになった。作はムリテである。

 稲荷山古墳は武蔵国最大、全国レベルでも有数の規模である。埼玉古墳群の中心にあり、5世紀末既に有力地方豪族の勢力基盤であった。そこの出身であるオワケ臣が大王を佐治する立場(杖刀人頭)にいて、故郷に帰って没したのち稲荷山古墳を造り葬られたものと見られる。一方ムリテも典曹人(文官)として仕え、最終的に熊本に帰り、江田船山古墳に葬られたものである。
 これらのことから、雄略天皇が既に5世紀末、「治天下大王」と称される立場、即ち「天皇号」成立以前の列島の支配者である君主としての「治天下大王」にいたと考えられる。中国の冊封体制から離脱し、新たな外交策を展開してゆく「大王」(君主)の誕生である。

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