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2011年12月

2011年12月29日 (木)

倭国の興亡84: 継体天皇、死の謎

 継体天皇の出自が謎めいており、又大和入りがかなり遅れたこと等から、継体は前仁徳王朝とは皇統の異なる新王朝の征服説があった。しかし最近、応神からの4代の系譜(「上宮記」による)も信頼性がある事がわかった。又、当時の有力氏族、大伴・物部や蘇我氏とは比べるべくもないが、古くより王朝とかかわりを持ち続けた息長氏の末裔であり、後代には敏達-彦人大兄-舒明-中大兄(天智)と息長氏系の王統が形づくられ、応神(仁徳)の王統を引く大王家の血筋とするのが正論となっている。しかし、謎はまだある

 「書記」によれば継体の崩御531年で、摂津国嶋上郡にある藍野陵に葬られたと伝える。現在、宮内庁が継体陵としているのは、大阪・茨木市・太田茶臼山古墳である。しかし、考古学者は誰も信頼してない
84_2   現在考古学者が真の継体陵と考えているのは、高槻市・今城塚古墳写真図示)である。こんなことになった原因は、継体の死に謎が多いからである。先に書記の531年説を書いたが、書記の「ある本」では534年崩御とあり、又百済本記によるとの注釈つきで次の文がある。『又聞く、日本の天皇、及び太子・皇子、俱(トモ)に崩薨(カムサ)りましぬといえり』という、ただならぬ内容の文章を書記は引用している。又書記はこのあと安閑天皇即位まで二年の空位を置いている。これらの記述は辛亥年(531年)に継体がなくなったというが、倭王権内部に何か異変があったことを想起させる。
 以上継体の没年は527年(古事記)、531年(百済本記)、534年(書記ある本)と3説あり、安閑・宣化を経て欽明即位に至る間の天皇没年や即位年は文献によりことなり、定説がない混乱ぶりである。
 欽明を支持する蘇我稲目が現れ531年「辛亥の変」と呼ばれるクーデターが起こり、欽明ー蘇我政権が誕生するが、これに対抗した大伴金村が2年後に安閑・宣化ー大伴政権を樹立して両朝が対立して、内乱まで起こる状態が9年間続いたとする説がある(林屋辰三郎氏)。2年間の空位を暦の違いとする説もあり未だ結論を得ていない。

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2011年12月27日 (火)

珍しい菊

Photo  日和でも、列島に雪をもたらした空気は冷たい。完全防寒スタイルで歩いていると、当地では珍しい菊にお目にかかった。民家の門脇に植わっていた。
Photo_4  イソギクである。これは本来千葉~静岡辺りの太平洋岸の岩場に分布していたものが、現在は各地に逸出したものと云う。しかし、当地では初めてお目にかかった。花径は5mmほどで、舌状花はなく筒状花が密集して咲く。判りづらいから接写したものを下に載せた。
 葉にも特徴があり、裏に毛が多く白っぽく見えて、表面は白く縁どりされたように見える。平地では地下茎によりカーペット状に広がるから庭園のグランドカバーとして用いられるそうだ。

Photo_3  これは通称寒菊。これも花径は1~1.5cm程度の小さな花である。種としての名ではなく、12月~1月に咲くこの種の菊の栽培種を「寒菊」と言うらしい。江戸時代にはこの花を油に浸しものを油菊といい、傷薬として用いたそうである。
 高層住宅のベランダでの鉢植には、花の少ない時期に適しているだろう。

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2011年12月25日 (日)

倭国の興亡83: 継体、謎の天皇即位

 5世紀末、雄略天皇崩御のあと、男子の後継者は事実上は皆無の状態で、一時的に擁立された飯豊女帝の崩御の後継者は絶えた。
 当時、最大の権力者であった大伴金村は、葛城氏や平群氏を抑えようと、自ら天皇を擁立しその地位を確立すべく画策した。最初、仲哀の5世の孫・倭彦王を迎えようとしたが、迎えの軍勢を見て恐れ、逃亡してしまった。そこで、越前三国の坂井にいた応神5世の孫・男大迹王(オオドノオウ)を迎えようとし、物部麁鹿火(アラカヒ)も賛成させた。説得を受けて、初めは逡巡した継体(男大迹王)も最後は納得した。

 継体の即位河内国・楠葉宮で行われ、即位5年に山背国・筒木宮に遷し、12年に同国・弟国に遷し、更に20年にようやく大和国・磐余玉穂宮(イワレタマホノミヤ)に遷都しておりその治世の末期にようやく歴代天皇の故地に入った。
 この王朝が前代の天皇とは血の繋がりがないことから、新しい王朝が始まったとする説が強い。応神の5世の孫とは、系譜的な擬制であり、「継体」の「継」は「つぐ」という意味でも、血の繋りがないときの使い方で、血縁があれば「嗣」の字を使う筈という。
 又、河内での即位は大伴氏の勢力圏で、大和国が蘇我・物部氏の勢力圏だから、これを避けるためだったことも、その表れという。
83_2   一方、男大迹王は傍系とされるが、決してマイナーな皇族ではなく、前王朝と同系とする説がある。曾祖父の姉妹允恭天皇の皇后になった安康・雄略の両帝の母なのである(系図参照)。尚、即位後あちこち遷都しているが、即位前から多くの妃がいたが、即位の後は仁賢天皇の手白香皇女を皇后として、正統性も補強している。
 又、系譜については、不明なのではなく記紀が省略しただけで、『続日本記』が引用する上宮記には応神-継体の5代系譜が明記されているという。さらに、地理的に継体の勢力基盤は広範に亘っていたという。又曾祖父の妹・忍坂大中姫(允恭皇妃)が大和にいたので、大和にも繋がりがあった。元々息長氏(天皇の外戚)の末裔の継体が仁賢の娘を妃に迎えたのは、前王朝に婿入りしたと同然で、名実ともに王位継承の正当性を身に着けたとも言われる。

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2011年12月23日 (金)

小春を歩く

Photo  今冬一番の寒さと云われる昨日今日、小春日と云えるかどうか、気温は低いながら、風もなく、時々雲が切れ陽射しが当るなかを少し歩いた。

 山間にある溜池。散らずにある山裾の紅葉が水面に生える池に、数匹の鴨が泳いでいた。芒ごしの風景は秋のものかも知れないが、これは今冬一番の寒さの中の風景なのである。

Photo_2  公園横の風景。紅葉していて落葉せずにいる葉が、たまさか雲が切れた瞬間覗いた、青空を背景にした瞬間である。これもやはり秋の風景だが、間違いなく厳冬の中でのワンシーン。裏日本特有の曇り空の冬に慣れている者にとっては、とても新鮮に感じる瞬間ではある。

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2011年12月21日 (水)

倭国の興亡82: [異説] 幻の女帝飯豊皇女の謎

 記紀によると雄略の後、継体天皇までの間、清寧ー顕宗ー仁賢ー武烈と4人の短命の天皇が続く。その後は後継者が絶え、応神の5世の孫を越前から迎えての異例づくめの継体天皇即位となる。
82_2   雄略で終わる仁徳朝における兄弟相続制は、大王の専制支配者の地位が確立するにつれ、兄弟間の抗争が起きた。また豪族は皇位につく皇族と結びつき、激しい権力抗争を繰り返し、巨大豪族間の勢力争いを引き起こした。
 仁徳の太后(生母)は葛城氏出身で、当初葛城系の勢力は強大であり、仁徳没後、この太后の3皇子が履中・反正・允恭と皇位を順次兄弟相続した。しかし、允恭朝から次第に中央の政権で大きな力を占めつつあった平群氏が大伴氏らと結託して、安康そして雄略を利用し葛城系の皇位継承資格者を次々と排除していった。この結果、葛城勢力は没落し、雄略の後皇位継承者は断絶し、継体の出現まで正当な皇位継承者が存在しない状況に陥った。
 この間隙を埋めるために自ら即位し、皇位を存続させたのが飯豊皇女であった。雄略が没した後、雄略の子・清寧が皇位を継いだとき、その後を継ぐ雄略の従兄弟であり、履中天皇の孫である顕宗・仁賢の兄弟(行方不明だった)が見つけ出された。清寧ははすぐ二人を皇太子及び皇子としたが、清寧没後、二人は譲り合い皇位を継がず、仕方なく姉(叔母との説もある)の飯豊皇女が中継ぎとして政治を執り行ったという。従って記紀以外の平安の史書「扶桑略記」や「水鏡」では「飯豊天皇」と記されている。

 しかし、飯豊皇女の即位は葛城勢力の復活であった(皇女の母が葛城氏の娘)。平群氏は既に滅亡し、雄略の晩年には大伴氏が急速に勢力を伸ばしていた。そこで、大伴氏は葛城政権復活に対抗し、あらゆる手段を用いて天皇にふさわしい皇子を各地に探し、やがて越前三国から継体を得て、飯豊ー葛城系統から皇位奪取に成功した。
 尚、雄略ー飯豊ー継体が実在した天皇系譜であり、雄略ー継体間に記紀が設けている諸天皇は、王朝交替の事実を合理化し、仁徳王朝断絶を正当化したものであるとする説があり、それが実体であろうと思われる。

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2011年12月19日 (月)

木枯らしに負けず

Photo_5  昨日まで6、7℃の真冬の天候。そんな中、健気に実をつけ.或いは咲いている植物を拾ってみた。
 1.カリン(花梨)。最近大木の花梨をよく見かける。薬用に植樹されたものが大きくなったのであろうが、今じゃ実も放置され、寒空に揺れていた。

Photo_2  2.紅葉。鮮やかな紅葉がこの寒さにもまけず、まだ葉を付けていて、この世に名残があるのか、散り渋っていた。

Photo_3  3.水仙。ポツンと一本だけ咲いていたが、流石に季節の花だけあって、美しく堂々と立っていた。

Photo_4  4.万両。これも季節のもので、沢山の実をつけ立派にそそり立っている感じである。

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2011年12月17日 (土)

倭国の興亡81: 大王(雄略)の基盤固め

 雄略朝のもう一つの重要施策が在来の有力豪族の排除である。即ち、5世紀に大きな勢力を誇った葛城氏と吉備氏を相次いで没落に追い込んだことである。
 5世紀の王位継承争いでは、まず眉輪(マヨワ)の変がある。雄略の兄・安康天皇は即位後、弟雄略の縁談話のこじれから、大草香皇子を殺害し、その妻の中帯姫を自分の妻にしてしまう。連れ子の眉輪王は後に父が殺されたことを知り、安康の寝首を掻く。そこで、雄略は眉輪王を捕まえて殺そうとするが、眉輪王は有力者である葛城円大臣(ツブラノオオオミ)の宅に逃げ込む。雄略は円大臣の家を軍兵で包囲する。進退窮まった円大臣は娘の韓媛と葛城の屯宅を献上し、贖罪を請うが許されず、家に火を放たれ焼死する。5世紀代倭王家の外戚となって大きな勢力をふるった葛城氏も、雄略にあっけなく滅ぼされた。しかし、まだ、葛城の血を引く市辺押磐皇子がいたので、狩りに誘い出だまし討ちした。
Photo  また、地方豪族ながら大勢力を誇っていたのが吉備氏である。造山古墳(左図)や作山古墳など造営した吉備の屈指の豪族である。
 吉備氏は東部の上道(カミツミチ)と西部の下道(シモツミチ)氏の連合体である。下道臣前津屋が天皇を呪詛していたのが発覚し物部氏に滅ぼされ、上道臣田狭が妻の稚媛を雄略に奪われ、任那国司に任じられたことを恨んで、百済に依って反乱を企てたが失敗した。これら一連の反乱により吉備氏の勢力は大きく削減される。

 この葛城・吉備両氏の没落は次の3点で大きな意味を持つ
1.二大勢力が没落し、従前の倭王より大王としての権力は強化された。
2.大きな土地を有する土豪型の氏族の終焉であり、大伴・物部・蘇我氏のような新しい支配機構に密着した、部を重要な経済基盤とする氏族が王権の中枢を占めた。
3.吉備氏の没落は、後の筑紫の磐井の乱鎮圧と相まって、ヤマトに比肩する地方豪族が消えヤマト王権の優位を決定づけた
 このように、ワカタケル大王(雄略)の時代、国冊封体制からの離脱、治天下大王号の成立、渡来人の第二波、旧豪族の没落等により、古代国家は次の段階へと進む

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2011年12月15日 (木)

冬の花

 冬型の気候になり、三寒四温を繰り返すようになった。日中気温が10℃を超すのは今日まで。明日からは又寒い冬型天候になる予報。そうなればまたどんよりと曇って寒い日が続き、福岡は裏日本型の天候になる。そんな中、山茶花は真っ盛りであるが、別な花をと探して歩いていて見つけたのが今日の花。

Photo  これはヤツデの花。葉が八つに分かれているからの名前かと思ったら、七か九に分かれているのが多いそうで、遇数に分かれた葉はないそうである。葉は20~30cmあり大きい。
 学名はFatsiaで、日本語の八を「ファチ」或いは「ファツ」または「ハッシュ」と云ったことに由来していると云うが、ホントかな?
 葉を乾燥させたものは八角金盤(生薬)といわれ、去痰の薬。但し、ヤツデサポニンという成分を含み、過剰摂取すると、下痢、嘔吐、溶血を起こすという。

 大きい葉だが、花の少ない時期に花が咲くので、庭木としても使われる。尚、大きな手のような葉が人を招くとされ、「千客万来」の縁起で、玄関先や門脇に植えられる。冬季、花の少ない時期の蜂などの密源になっている。花茎径は約30cmで、背丈は3mにもなる。

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2011年12月12日 (月)

倭国の興亡80: 雄略朝、百済との関係緊密化

 雄略朝の施策で2番目に顕著なのが、中国冊封体制からの離脱後の半島への積極的な介入策である。400年前後の第一次大量渡来人以降の到達点が雄略朝で、伽耶地域からの渡来人とその先進技術・文物を独占掌握した倭王権は、それをテコに列島支配を強化した。

 この間、倭国が最も緊密な関係にあった。伽耶地方の勢力にも大きな変化が起こった。5世紀前半まで、須恵器・馬具・甲冑など渡来系文物をもたらした金海・釜山地域を中心にした勢力も金官国の衰退により、代って北の大伽耶(伴跛(ハヘ)国。慶尚北道高霊(コリヨン))が有力となる。470年にはこの大伽耶を中心に伽耶北部から西部の諸国が連盟を結成した。そこで、倭国の交流も大伽耶圏に中心が移った。図は5世紀末~6世紀初頭の半島動乱。百済と新羅は倭国に対し、敵対と臣従の2面外交を繰り返す。
80  このような動向とも関連し、百済との関係が強くなってくる475年、百済は都・漢城を高句麗に攻め落とされ、蓋鹵(ガイロ)王をはじめ、王妃・王子たちが殺害された。王族・遺臣たちは倭国の援助受けて熊津(ユウシン)に新都を置きかろうじて国を興した。
 5世紀後半の半島の戦乱は列島にも大きな影響を及ぼした。雄略朝前後には今来漢人(イマキノアヤヒト)と呼ばれた百済系の渡来人が多数来朝した。第二次の渡来人で、先進技術をもたらし、また王権の政治機構に渡来人が組み込まれた。彼らは陶部(スエツクリ)・鞍部(クラツクリ)・画部・錦部・訳語などのトモに編成され一次渡来の東漢(ヤマトノアヤ)氏の管轄下に置かれた。
 これがきっかけとなって、伴造(トモノミヤッコ)ートモ・部制に再編されて行く。(トモ:官に仕える人、官人)
 こうして5世紀後半代の半島での動乱が列島にも波及し、列島は新しい歴史のステップに入ってゆく。これ以降百済との関係が重要になってゆく。上図参照。

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2011年12月 9日 (金)

いよいよ冬到来

 予報通り冷え込んできて、今日、明日は最高気温8-9℃の予報である。真冬並みの寒さだというが、急な天候の変化には体もついてゆかない。つい風邪をひく。年寄りは風邪による死亡もあるようだから、甘く見ないで気を付けよう。

Photo  これは、フウセントウワタ(風船唐綿)の実。昨日、小春日の中、散歩していて目に付いた。先日この欄に載せたフウセンカズラとそっくりな実であるが、カズラがピンポン玉大に比べ、これは卵位で大きい。花も小さい可憐な花で綺麗だが、やはりこの実が目を引く。も少し経てば、実が枯れて割れると中に綿が入っているのが判る。花から実と長期楽しめるが、背丈程に大きくなるので狭い庭には不向き。

Photo_2  これはご存じアロエの花。アロエは医者要らずと言われ、田舎の家では大抵1株はある。紅い花をつけるのがキダチアロエで、には葉の搾汁を塗るとすぐ癒える。又腹痛や胃の弱い場合は葉の棘部分を除いた葉肉部分を食する(1日1片)と治る。又搾汁は化粧水にも使える。他、便秘、血圧、二日酔い、風邪にも効く由。薬効成分も確認されているので、嘘ではない。一度お試しを。

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2011年12月 7日 (水)

倭国の興亡79: 倭王権の支配領域の拡大

 倭王権はワカタケル大王(雄略天皇)のとき、宋王朝の皇帝に対する上表文において、東の毛人(蝦夷)55国、西の衆夷(熊襲・隼人)66国、海北(朝鮮半島)95国を平らぐるとしている。列島内の異民族と表現し、半島の人々も百済を「辺隷」(辺境の属国)として異民族視している。即ち、半島をも含めて異民族をも包摂した世界の王という王権思想が形成されている。倭国的中華思想と表現されている。
 これは、4~5世紀に、半島諸国との外交で、軍事力を背景に主導権を握ることがあり、窮地に陥った百済や新羅から人質(王族)をとり、それを武器に王位継承に介入することもあった。それで、半島諸国をも傘下に置いた小世界の盟主との意識が形成されたとみられる。
79  国内的には5世紀後半には前方後円墳が最も広がる時期である(図参照)。東北最大の宮城・雷神山古墳(墳丘長168m)のほか、東北にも古墳時代前期の大型古墳が少なくない。また、南限は鹿児島・志布志湾の唐仁大塚古墳は墳丘長150mを誇る大古墳である。(図は年代による古墳の消長を示す)
 唯、中期には畿内や吉備や上毛野など倭王権の中枢を占めていた勢力の拠点では古墳が巨大化するが、多くの地域では逆に規模は縮小する。これは、倭王権への依存度が拡大した結果、権力規模の象徴たる墳墓を巨大化する必要がなくなったことを表している。それだけ、倭王権の列島各地に対する政治的・文化的影響力がたかまり、王権と地域勢力の格差が広がったのである。

 こうした倭王権の強化が、半島における外交関係の主導性と相まって、倭王に「天下的」世界を構想させ、「治天下大王」の称号を生み出した。一方、中国冊封体制からの離脱は、自立への道を決意させ、列島の王に独自の権威(大王の神聖化)を付与する儀礼の整備が進むことになる。

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2011年12月 5日 (月)

初冬の風景

Photo  朝夕の冷え込みで、冬を実感するが、辺りの風景は、紅葉もあまり進まず、正月はまだ遠い気がする。そこで冬らしい風景をと探しながら、いつもと違うコースを歩いてみた。
 落葉した銀杏。銀杏が一列に並んだ銀杏並木であるが、ここは倉庫の横で、人通りも少ないせいもあろうが、風が吹き抜けないらしく、落ち葉がそのまま積もって、敷き詰められた様になっている風景にでくわした。やはりここには冬が来ている! これ、誰が後を片付けるのか要らぬ心配しながらあるいた。
Photo_4  琵琶の花。当地では琵琶があちこち植わっていて春から初夏にかけて、小粒ながら琵琶がなり、琵琶農園をやっているところもある。その琵琶は勿論この花のようになるわけではない。柿と同じく、花は沢山着くが実をつけるのは少ないようになっているのかな。尚、一部枯れたようなのは、先日の寒さでやられたものだろう。これも初冬の兆し?
Photo_3  下。はぜ(櫨)。これを見て、札幌の街路樹の櫨並木を思い出した。やはりこれも初冬の証だろう。綺麗に紅くなり、紅葉に負けないいろであるが、漆と同じく負けることがあるそうで、近づくのは嫌な感じだが、眺めるには美しい景観を作ってくれる。 やはり自然は確実に冬になりつつあり、あと一か月足らずで正月だ。一年が早い。

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2011年12月 3日 (土)

倭国の興亡78: 治天下大王(君主)の出現

  5世紀末の倭王権は武王のとき、中国王朝の冊封体制から、王朝交替を機に決別する。以降、倭国及び倭王権の動静は不明となるが、その頃の「大王」に関連する金石文が鉄剣から1978年に発見された。この鉄剣は埼玉県・稲荷山古墳から出土したもので、奈良・元興寺文化財研究所で保存処理をしていて、115文字の金象嵌の銘文が発見されたのだ。
78_4  銘文には、オワケの臣(被葬者)が「杖刀人頭」(親衛隊長)として王権に奉仕し、今に至った事を述べ、「・・・(略)・・・。獲加多支鹵大王、在斯鬼宮寺、吾左治天下、・・・」(ワカタケル大王がシキの宮で天下を治めた時に、大王の統治を補佐し、又この剣を造らせ、王家への奉仕を記した)と記されている。
 この中の獲加多支鹵(ワカタケル)大王が倭王であるとすれば、『書記』にある大泊瀬幼武(オオハツセノワカタケル)、古事記では大長谷若建(オオハツセノワカタケル)の名前である雄略天皇をおいて他に該当者がいない。即ち『宋書』の倭王武と同一人物と見られる。この剣の造られた辛亥年(471年)も、武が宋に朝貢した478年とも矛盾しない。

 他方熊本県・江田船山古墳で1873年(明治8年)に発見された刀剣銘には「治天下○□□歯大王」の冒頭文があり、これは「多遅比瑞歯別天皇(タジヒミズハワケミコト)」(註:○はタジヒと読む獲に似た文字が入る)、即ち反正天皇のこと(書記)とされていたが、上記鉄剣発見で、○=獲、歯=鹵と似ており、治天下獲□□□鹵大王と修正され、これもワカタケル大王と考えられるようになった。作はムリテである。

 稲荷山古墳は武蔵国最大、全国レベルでも有数の規模である。埼玉古墳群の中心にあり、5世紀末既に有力地方豪族の勢力基盤であった。そこの出身であるオワケ臣が大王を佐治する立場(杖刀人頭)にいて、故郷に帰って没したのち稲荷山古墳を造り葬られたものと見られる。一方ムリテも典曹人(文官)として仕え、最終的に熊本に帰り、江田船山古墳に葬られたものである。
 これらのことから、雄略天皇が既に5世紀末、「治天下大王」と称される立場、即ち「天皇号」成立以前の列島の支配者である君主としての「治天下大王」にいたと考えられる。中国の冊封体制から離脱し、新たな外交策を展開してゆく「大王」(君主)の誕生である。

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2011年12月 1日 (木)

色づく柑橘類

 秋も深まりというより、初冬となって当地の柑橘類が黄色く色づいてきた。当地では大抵の庭先に、夏柑や金柑それに温州蜜柑などが植えられており、それらが黄色く色づいてきたが、余りにも多いので珍しくもなく、少し変わったものをと探してみた。

Photo  。これは柚子。香辛料として、搾り汁がいろんな惣菜に振掛け食される。ポン酢に似ており、暑い頃には重宝される。大分の一村一品運動で作られる「柚子胡椒」は有名。この辺りでは庭木としては滅多に植わっていないが、果皮が凸凹で、普通の蜜柑とはすぐ区別できる。
 温州蜜柑より小さく、ホンユズに対し、ハナユ或いは1才ユズなどと呼ばれ、寒地でも育ち、且病害虫にも強いので無農薬栽培が出来る。但し、桃栗3年、柿8年、ユズの大馬鹿18年と言われるように種からの栽培は時間を要するので、接ぎ木されると3-5年で結実する由。

Photo_2  ボンタン(文旦)。大きさは15-20cm近くある大きな柑橘類である。九州でも鹿児島地方に多く、当地福岡ではめったにお目にかからない。ようやく黄ばみ始めた頃。これは蜜柑と同様、実は食べられるが、特に美味しいともいえない。皮はよく土産物として売られている。水炊きして、油成分や苦みを抜き、水切り後、砂糖と水飴で煮て、砂糖をまぶしたものである。

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